炎上(1958)のレビュー・感想・評価
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文系脳の学生は簡単に絶望しすぎ
日本では進路選択で「文系」と「理系」に分けられます。「文系」とは「人間世界の内(≒フィクション)」を探究する学問、「理系」とは「人間世界の外(≒リアル)」を探求する学問と言えます。
本作の主人公、溝口吾市は父と同じ道、仏教者を目指す若者です。早逝した父の伝手で京都の大寺、驟閣寺(金閣寺)の住み込み弟子に採用され、住職の厚意により大学にも通わせてもらっています。でも今ひとつ学問には身が入らない様子。
彼の世界は生活する寺、大学、足の悪い友人、遊郭、生まれ故郷の寺で完結しています。彼は閉塞感に満ちた狭い世界をさまよいますが、そこで彼が見聞きするのは人間社会の汚い面ばかり。不倫する母親、見て見ぬふりをする父親、金や女に執着する僧侶たち、アメリカ兵に媚びる日本人女性、足が悪いのを逆手に取り女の同情を引こうとする大学の友人、ドライな遊郭の女性。唯一の理解者で、吃音症の吾市を馬鹿にしなかった友人の鶴川君はあっけなく事故死。
狭い世界をさまよいながら、彼は一体何を探していたのでしょうか。世の中や人間がどんなに変わろうと不変なもの、普遍的な価値、真善美、そういったものでしょうか。自分が安心して寄りかかることのできる大樹のような宗教観や思想でしょうか。結局吾市君は人間世界の中にそのようなものを見つけることはできませんでした。
時間は戦中から戦後へ移り、世の中は大きく変わってしまい、それに伴い日本人の姿もガラリと変貌してしまいます。「何を信じていいのやら」というのが吾市君の心情ではないでしょうか。結局吾市君は信ずるべき何物も見つけられず、絶望してしまいます。将来住職になるとすれば、吃音症も大きな足かせとなってしまいます。現状に安易に絶望し未来にも希望が見いだせない吾市君でした。
明治政府が僧侶に妻帯を許可したことで、僧侶の生活は大きく変質します。戦後社会においては住職の経営感覚の有無に寺院の存亡がかかるようになってしまいます。観光客やインバウンドの外国人を集めることができるかどうかが勝負です。その点、吾市君の住む驟閣寺(金閣寺)は名建築、驟閣(金閣)のお陰で経営は順調、住職は美人芸妓を囲い孕ませてしまいます。そんな住職自身も、仏道と現実の狭間で苦しむ一人の人間です。中村鴈治郎演じる住職の田山道詮老師は本作中で最も魅力的なキャラでした。欲と煩悩にまみれた生臭でありながら、完全に割り切ることもできず、内心では苦しみ揺れ動く初老の男です。人間味あふれるキャラです。そんな住職の心も、若い吾市君には理解できません。ただの汚い大人にしか見えません。思い詰めた吾市君はこれまで心の拠り所としてきた驟閣(金閣)放火を目論みます。なぜ彼がそんな暴挙に出たのか、よく理解できませんでしたが、結果的にその行為により本人と彼の母は命を絶つことになってしまいます。
「驟閣ほど美しいものはこの世にはない。お父さんは驟閣のことを考えただけで、この世の中のきたないことは、みんな忘れてしまうんや。」吾市君の父親が遺した言葉です。父は海辺で荼毘に付され、驟閣は吾市君の手で炎上し、火の粉を巻き上げます。
視野が狭い、自己(自分、父親、驟閣)の美化、行動が短絡的、観念的、理想主義的、他罰傾向、言語表現能力が低い、考えを上手く言語化できない、自己救済を求めるばかりで他者を救済しようとしない、吾市君はそんな典型的文系脳の若者です。かれはゆっくりと時間をかけて現実社会に適応し、大人になることができません。「世の中は汚い!大人なんか信用できない!」という薄っぺらな若者は多かったのでしょうが、彼らは「あなたはそんなにきれいなのか?」という問いに答えることができません。「誰もわかってくれへんのや…」という吾市君の独白も、甘えといえば甘えです。誰かにわかってもらうためには、長い時間と多くの労力が必要です。
こういう真面目で繊細な内向きの若者が社会に目を向けたとき、彼は学生運動に身を投じることになるのでしょう。戦中戦後を生きた若者たちは、なかなか人間世界の外に目を向けることは難しかったのかも知れません。肩に力の入った文系脳恐るべし。
人工的な美を追求するアートはもちろん美しいですが、高額でやり取りされる様は全く美しくありません。吾市君は驟閣が観光客を集めるための広告塔に堕してしまったように感じたのでしょうか。人間世界への絶望が彼の自己破壊衝動に火をつけてしまったのでしょうか。そんなことをせずに、もし彼が理系に転向していたら、真面目な彼のことですので科学的真理の探究に没頭し、業績を上げていたかも知れません。残念なことです。彼のような人は人間世界の外に目を向けることで救われる可能性があるのではないでしょうか。でも今の日本の教育システムでは、文系と理系の行ったり来たりは容易くないのでしょう。文系脳はフィクション脳と言い換えてもいいかも知れません。真面目な人間ほどフィクションに絡み取られ身動きができなくなってしまいます。吾市君の「狭い人間世界に絶望し自己破壊行動に走る」という姿は、この後、原作者の三島由紀夫により現実に再現されてしまいます。
ナイーブな吾市君を当時27歳の市川雷蔵が大熱演。原作者の三島由紀夫(33)もその演技を絶賛したそうです。驟閣寺の住職、田山道詮老師を演じた二代目 中村鴈治郎(56)の名演も光ります。監督市川崑(43)の演出も異様な緊張感を持続させ見事です。
本作で現代劇に新境地を開いた市川雷蔵もこの10年後、37歳にして直腸癌で惜しまれつつ早逝してしまいます。その2年後には三島由紀夫も割腹自殺、享年45。
S33公開の本作から4年後、S37には水上勉原作、川島雄三監督の「雁の寺」が公開されます。こちらも寺を舞台にした若者の苦悩と挫折の物語で、川島雄三監督の演出が光る名作です。芸術的な本作より人間の生臭さを直接的に表現した「雁の寺」の方が私は好きです。
淀川長治のキネ旬ベストワン選定理由を勝手に想像してしまい…
かつての鑑賞では、
原作三島由紀夫、監督市川崑にも関わらず、
あまり心に響く作品では無かったものの、
改めて確認してみたら、
キネマ旬報ベストテンで、
木下恵介の「楢山節考」
黒澤の「隠し砦の三悪人」
小津の「彼岸花」がワンツースリーの年に
第4位に選出という中、
淀川長治が上記3作品を第2〜4位に選定して
いる中、この作品を第1位に選定している
ことに興味を覚え再鑑賞してみた。
しかし、私の苦手な三島文学原作作品。
やはり、なかなか作品の中に入ることが
出来なかった。
小説の方の表現がどうだったのかも
既に覚えていないが、
この映画で気になったのが、
各登場人物のディフォルメ感。
特に仲代達矢扮する大学の同級生がその典型
なのだが、老師や母親らの人物描写にも
リアリティを感じられなかった。
信じるものに裏切られて国宝の寺を焼く設定
は分からなくもないが、
不自然に感じる登場人物に構成された結果、
現実味ある物語には感じられなかった。
画面そのものは、
見事な白黒映像美の作品だったが、
なにせ三島文学への理解の浅い身として、
小説の読後感と同じ鑑賞後感となって
しまった。
そんな低次元の私が何ですが、
淀川長治のキネ旬ベストワン選定は、
洋画の世界に慣れ親しんだ身の上からの、
あたかも外国人が
日本の観念世界への興味から邦画を評価する
ことと似た感覚があったのでは、
と勝手に想像してみてもみたのだが。
究極の美との心中
劇中では金閣ではなく「驟閣(しゅうかく)」と呼んでいました、原作・三島由紀夫の「金閣寺」ですが寺側の映画化への反発か三島の許諾が得られなかったかは定かではありませんが名称変更されていました。
1950年(昭和25年)7月2日未明に実際に起きた放火事件は同寺の修業僧である林 承賢(当時21歳)が犯人でやはり吃音だったそうだ。放火したのは、「金閣寺の美しさ」と「自分を取り巻く環境」への嫉妬や反感から犯行に及んだとされているそうだ。自殺未遂や実母の引責自殺、懲役7年の判決が下り収監中に結核と精神状態が悪化し釈放されてのちの1956年(昭和31年)3月7日、26歳で病死したそうで映画の護送中の列車からの飛び降りは原作とも史実とも、ちょっと異なる。
映画では浮気していた母や芸者に入れあげている住職、吃音を揶揄う連中、自己中で女たらしの友人など 誰も解ってくれないと嘆き苦しむ主人公、気持ちは分かるが放火の動機の方はあえて暈しているような気がしました。三島先生をさておいてで恐縮ですが、おじさんの印象では放火は主人公がこよなく愛した究極の美との無理心中だったような気がします。見どころは何といっても豪華出演陣の名演技でしょうね。モノクロのシネスコでしたが普通なら金色に輝く様をカラーで撮るでしょうが市川監督は赤い炎にメラメラと燃える様を取りたく無かったからだそうです、これまた凄い美意識ですね。
素晴らしい。原作がそもそも傑作であるが、このクオリティであれば映像...
カッコよさが一切ない雷蔵の魅力
仲代達矢こんな前から活躍してたとは
聞き慣れない言葉が出てきて、調べると現代では禁止用語とのことで時...
三島文学から独立した市川崑監督独自の映画美学がある傑作
三島由紀夫31歳の時の日本文学の名作と謂われる『金閣寺』を原作とする市川崑監督の文芸作品。有名小説の映画化では日本映画の中で特筆に値する評判は知っていたものの(淀川長治さんの1958年の日本映画ベストワン)、この年になって漸く鑑賞の機会を得ました。市川作品は、「ビルマの竪琴」(56年)「鍵」(59年)「おとうと」(60年)「私は二歳」(62年)「股旅」(73年)「犬神家の一族」(76年)「映画女優」(87年)しか観ておらず、それでも日本映画のなかで市川監督のモダン的で洗練された演出タッチは独特の個性を持っている印象を持ちました。特に「私は二歳」の垢ぬけた演出に驚き、「股旅」にも市川監督独自の粋な才気がありました。流石に晩年の「映画女優」には衰えを感じて低評価してしまいましたが、「ビルマの竪琴」は感動した日本映画の一本です。そして今回の三島文学の作品には、簡潔にして要点を押さえまとめた脚本に感心し、撮影、音楽も素晴しく、そしてキャスティグの適正さと役者の演技のバランスの良さに驚いてしまい、この時代の日本映画の本領を痛感した次第です。
三島由紀夫の原作は、研ぎ澄まされた文章の美しさとその表現力に圧倒されて、幾つか書き写すくらい心酔したほどですが、この映画には名匠宮川一夫の崇高な映像美があります。陰翳の濃いモノクロ映像と絵画のような構図の見事さは、「羅生門」「雨月物語」と比べて見劣りがしません。この日本的映像美と時にスタイリッシュな構図を組み込むカメラアングルの斬新さ。追憶シーンでは背景を切り替えるモンタージュのスマートさもいい。観念的な文学の映像化は表面的なものに陥りやすいのを、この宮川一夫の撮影と実力ある役者の演技で克服している市川監督の演出力により、映画作品として独立しています。
主演は日本映画全盛期の大スターの一人ながら早逝された市川雷蔵(1931~1969年)で、初めて現代劇に挑戦した作品といいます。これ迄観た作品は「新・平家物語」(56年)「好色一代男」(61年)「剣鬼」(65年)「陸軍中野学校」(66年)のみで、代表作「眠狂四郎」シリーズを知りません。どれも魅力的な演技を遺していると思われますが、今回の溝口吾市役は、「陸軍中野学校」の冷静沈着な演技に匹敵するものを感じました。スター俳優が進んでやるような役柄ではないものに挑戦したことに収まらない、人物表現として優れた演技です。この市川雷蔵演じる溝口と同じような境遇の戸刈役仲代達矢の演技にも感心しました。舞台で鍛えた芝居の技巧、足が不自由な難役を自然に見せる身体の動きと流れるような台詞の上手さが素晴らしい。これによって市川雷蔵演じる溝口と対比される人物表現が、設定以上の深さを増しています。このキャスティングの相乗効果の素晴らしさに加えて、老師役中村鴈治郎の安定感と貫禄の演技にも感銘を受けました。溝口に期待しながら修行として距離を置く老師の内面を見事に表現していると思います。溝口の母役北林谷栄も適役以上の上手さがありました。自分の不貞を知られても我が子の出世を期待し親のエゴを押し付ける複雑な役を巧みに演じています。父承道の浜村純、福司の信欣三、友人鶴川の舟木洋一、典座の大崎四郎と、どれも役に嵌っています。なかでも脇役が主で唯一「帝銀事件」(64年)が主演だった信欣三が個性的で渋く、地味ながら存在感がありました。女優では28歳の新珠三千代の品のある美しさ、五番町の遊女役の中村玉緒19歳の初々しさと可愛らしさが、共に好印象で作品内容に合っていました。兎に角、このようにキャスティングが的確で、役者の演技も高いレベルでまとまっていて非の打ち所がないのは、日本映画では珍しい。
原作が名作だと映画として不足があるものですが、これは市川映画として独自の世界観を構築した日本映画史に遺る傑作と言っていいと思います。宮川一夫の映像美と役者の演技を味わうべき映画でした。
〔金閣寺は50年前に一度だけ高校の修学旅行で観たことがあります。しかし、黄金に輝く美しさに見惚れた記憶がありません。印象としては、清水寺と二条城が古都京都らしいと思ったくらいで、会社員時代大阪に3年配属されていた頃(阪神淡路大震災のとき)も再び金閣寺を訪ねることはありませんでした。主人公溝口が絶対的美として思い込んだ、または思い込まされていたことに共鳴することはありません。この絶対的美として17歳の私が衝撃を受けたのが、唯一西芳寺(苔寺)でした。枯山水の古色蒼然とした静寂の佇まいに日本的な侘び寂びの美しさを感じて圧倒されたことが今でも想い出されます。放火される1950年以前の金閣寺には、再建されたものと違う美しさがあったと想像します]
執着、煩悩
昭和19年。溝口吾市は、父の遺言で驟閣寺に徒弟として住みこむことになる。吃音のため口数が少ない彼だったが、父の影響で驟閣に強い憧憬があった。しかし戦後、寺は観光地化、大学の友人戸苅の影響、住職への不信、と不穏な感情が募っていく。
原作である三島由紀夫の「金閣寺」は、だいぶ前に読みました。実際の事件を元にした小説は、創作が多いと思いますが犯人の心情をあまり理解できなかった記憶があります。しかし今作を鑑賞すると、とてもわかり易い。若かったから理解できなかったし、映像化で理解しやすい、と相乗の効果があったと思いました。
市川雷蔵と三島由紀夫は、これをきっかけに表現者としてお互いの理解が深まる。しかし二人は全く違った形で、若くして亡くなってしまう。一方、仲代達也は未だに活躍。
観て 読んで 観る
知っても分からなければ知らぬと一緒
謎
原作未読。
どこまでが事実なのかフィクションなのかわからない。
驟閣寺に惚れ込んだ地方の小さな寺の住職である父が、
亡くなる前に息子を僧侶にして欲しいと預けた。
寺の老師の計らいで古谷大学にも通わせてもらう。
息子吾市は驟閣寺に憧れ毎日のように拭き磨く。
寺も住まいも人手に渡った母が下働きにやって来る
そんな母を嫌悪する吾市。
学校をサボったり
不道徳な行いをする米兵&売春婦カップルの
女性を弾みで突き飛ばしケガさせたことを
老師に吾市本人から報告せずにいて、
後から突き上げられた老師は怒り心頭❗️
吾市は冷たい言葉を投げかけられる。
足の悪い戸苅に金を借り返さないからと
寺に乗り込まれ老師が肩代わりして、
吾市は次は追い出すぞと言われる。
映画では描かれていないが、寺でいじめられたのか?
父がいた頃にふしだらな行為をしていた母が
転がり込んで来てますますイライラしていたのだろうか?
表では立派なことを言いながら芸者を囲う
老師への腹いせか?
お嬢様に戸苅ともども、かたわ、かたわと
連呼されたからか?
驟閣寺に火をつけてしまった‼️
母は列車から飛び降り自殺。
吾市は自殺したのか服役したのか?
あの豪華絢爛な金閣寺にまつわる事件。
何が原因発端なのか、NHKのアナザーストーリーを
観てもわからない。
どこか頼りなげな市川雷蔵
コンプライアンスとハラスメント過敏時代の今では決して作られることのない貴重な映画。
戦後に焼け落ちた金閣寺と、無意味だった戦中の建物疎開の皮肉
金閣寺放火事件を題材にした小説の映画化。
三島文学の最高峰とも称される『金閣寺』。監督・市川崑、撮影・宮川一夫ら名匠によって映像化された本作も評価が高い。
事実に材を取りながら、三島の心象をうつしたかのような『金閣寺』はフィクションの要素も多く、映画化に際しては京都の仏教界からの反発は凄まじかったそう。
原作とタイトルが異なるのも、寺の名前が変更されているのもそのため。
ナイトシーンを多用した陰鬱な描写によって、驟閣寺の足許に蠢く人間の醜悪さや結末を予兆させる演出は見事。
眠狂四郎などの剣豪とは異なる役どころを演じた主役の市川雷蔵も素晴らしいが、共演陣も豪華。
欲望も内面の醜さも剥き出しにした、主人公とは対局的な人物・戸狩をのちの黒澤作品の常連、仲代達矢が怪演。
出番は少ないが、主人公の父を演じた浜村純も印象的。
戦時中、空襲による延焼を避けるため、京都では大規模な建物疎開が強行された。
京都の中心部で堀川通、御池通、五条通の道幅が例外的に広いのはその名残り。
実は、京都の市街地は現場投下の第一目標として温存されていたため、東京、大阪のような大空襲は実施されず、建物疎開はまったくの徒労に終わるという皮肉な結果に。
作品の序盤で建物疎開の様子をなすすべなく見つめる住民と思しき婦人の表情が痛ましい。
NHK-BSにて初視聴。
主人公の逃れられない運命を感じることしかできない
観ていて物語に没入して、市川雷蔵さんが主役だということをすっかり忘れてしまっていた。
それほどまで見事な演技だったと思います。考えてみればスゴいことです。
寺の老師役の中村鴈治郎さんの演技が良いですね。
若い仲代達矢さんが主人公の高校の同級生。身体が不自由でひねくれた男で、主人公をメフィストフェレス的に自然誘導する役回り。スゴい迫力の演技です。
そして、雷蔵さんとセットの中村玉緒さんが出てくる。今回は、チョンの間の売春婦役。
映画の中では金閣ではなくて「驟閣」という国宝の建造物が燃えます。
映画の構成もあって、主人公の逃れられない運命を感じることしかできない。
しかし、あれ、本当に市川雷蔵さんなのか。凄いな、と観終わっても思う。
これで雷蔵さんは演技を高く評価された、と言われるだけあります。
永山則夫
改めて、鑑賞してみて、わかったことがある。溝口吾一(市川雷蔵)は『分裂症』気味だと警察関係が判断した。
今流にいって、精神疾患であるが、それに、どもり(映画の中で使われている言葉、2021年では吃音症という言葉を選んで使ってる。)に子供の頃の悪環境により今で言う自閉症気味にもなっている。
例えば、胸を患っている父親である住職の寺の経営難。母親は親戚のおじさんとの不貞。醜態を見せまいとして、父親が溝口吾一の目を隠すシーン。どもりだから、からかわれたりいじめられたりするため疎外感。 彼のどもりを理解してくれたり、全く気にしていない、鶴川(舟木洋一)や老師(中村鴈治郎)のような存在が幼少の頃の彼にはいなかった。 だからと言って、堂々とどもっていても平気だ、どもっている人間と会話ができないのはできない相手に問題があるといえるようなカリヤ(仲代達矢)のような強い存在では彼はなかった。 大学になってこのような存在の人が現れたわけだが、鶴川には心を開けたけど、事故でなくなってしまった。カリヤは『全てが変わるから、生きているんだ』溝口とは真っ向から相容れないが。老師にも心を開くことができなかった。老師が芸妓を囲っていることを知る以前から、人に寄り添って、甘えるような心が溝口には定着していなかった。孤立感を背負っていて、心の中を見せられる人間との交流がないから、安定していて、戦争中でも変わらない美しさに執念を抱くようになる。また、驟閣の美に溺れる父親が息子、吾一に影響を与えた。はっきりいって、自分が立ち向かえない、蟠りのある現世から逃れ、、驟閣を理想郷として考えるようになったと思う。親子共々、孤立感から厭世主義になり、、驟閣を考えただけで、この世の汚いことを忘れると溝口は言っている。溝口本人も汚れてしまったことを自認していると思う。
あらすじは全く書く気がないが、ここで奇妙なことに気づかされた。 ご存知かと思うが、死刑囚の永山則夫(知らなかったら調べてほしい)だ。彼の子供の頃の家庭環境はすでに破壊されていたが、母親の里に引っ越した時、土地の方言が話せず虐められ、友達もできず、孤立化したと言う。これは戦中の話ではなく、20世紀、昭和時代のことだが。孤独で、いじめの中で、友達もできないし、精神的に患ってしまい、犯罪に手を染めてしまうとことまで似ていて、被ってしまった。永山則夫は獄中で手記を書き、自分の心の中を曝け出し、読者という理解者、共感者を集めたが、溝口は、驟閣の美について娼婦やカリヤに話しても、全く理解されなかったり、全く正反対の意見を言われ、共感できる相手を見つけられなかった。これは本人にとってくるしいことだと思う。 個人的にこのような経験をしているので良くわかる。 しかし、私にとってみると、驟閣の美についての形容が十分でなく、映画画面でそれを感じろと言われても無理があった。脚本をもっと、三島の金閣寺描写に近づけて欲しかった。
父親の夢の中に住んでいる溝口、ひとりぼっちで理解されない溝口。ここで、老師の役割は絶大だと思う。溝口は人に虐められるが、老師の嫌がることをして虐める。愛の受け方は知らなくて、逆手に取る例だ。老師の愛は大きい。自分が何をしているか知っているし、それが罪だと言うことも。だから、自分は相応しくないから寺を返すという。心の中の葛藤、醜悪を面に向き合い解決しようとしている。この映画を見ながら、老師と溝口はちょっと似ているので、共通性を考えてみたが、老師は寺を溝口に譲ることを諦めて、自分の問題点を論理的に解決をしようとする。溝口は自己中心の負の連鎖の渦にいるようだから、分裂症気味になり、ここから抜け出せなく、自分を冷静に見つめることができない。驟閣が炎上した時、老師は『仏の祟りや』と言うが、これは自分の罪のせいだと思っている。老師だけが最後まで溝口のために上告してくれた。そして、罪の懺悔の旅に出る。溝口はまだ負の連鎖の中にいる。 一般市民は駅で無責任なことを言い合う。
汚れた世界 美醜の苦悩 燃え上がる拠り所
Amazonプライム・ビデオで鑑賞。
原作(三島由紀夫「金閣寺」)は未読です。
市川雷蔵の演技がすご過ぎました。眠狂四郎シリーズなどで見せるニヒルなカッコ良さは影を潜め、スターのオーラを完全に消し去って役に徹していた姿勢に感銘を受けました。
青年の孤独―。世界の汚らわしさを知り、唯一の心の拠り所であった驟閣までも金儲けの道具にされ絶望のどん底へ…。
流麗なカメラワークと映像美で青年の心の襞を演出。驟閣炎上のクライマックスは悲壮なれど、とても美しかったです。
美しいものを美しいままに留めておくためには自らの手で葬り去り、その姿を昇華させるしかなかった、と云うことか?
青年の辿った末路含め、心がざわつく作品でした。
全25件中、1~20件目を表示










