マダムと泥棒のレビュー・感想・評価
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やっぱりおばあちゃんは最強!! 1950年代の誇る良質な犯罪コメディがリヴァイヴァル。
ふつうに面白かった。
昔から自分にとってのサスペンス映画を観る際の「バイブル」といっていい、文春の『大アンケートによるミステリー・サスペンス洋画ベスト150』で36位に入っていたことで、ずっと気になっていた映画だった。
自分のなかではなんとなく、やはり19位に入っていながら未見で放置していた『毒薬と老嬢』と「セットで」記憶していた映画でもある。
今回、映画館で観ることができて僥倖でした。
冒頭、極端な俯瞰ショットで、線路脇に立つ家屋とそこから出てくる老婆の姿が映し出される。最初は駅なのかと思ったが、どうやらそこが老婆の家らしい(この鉄道トンネルの上に張りだすような奇妙な立地は、のちに重要な意味を持つことになる)。
婆さんは、街の人々からはそれなりに敬意と親しみをもって遇されている一方で、毎日毎日「正義の情報提供」を押し付けられる警察署のお歴々はずいぶんと辟易している様子。
そんな婆さんの家に、とある下宿希望者がやってくる。
「プロフェッサー」と名乗るその初老の男はヴァイオリンのアマチュア演奏家でもあるということで、この場所を弦楽五重奏の練習場に使いたいとのこと。
気のいい老婦人は簡単にOKを出すが、いざぞろぞろやってきたクインテットの面々は、明らかにうろんな連中で……。
イギリスのミステリ小説/映画において(とはいえ監督も脚本家もアメリカ人だが)「大家と謎の下宿人/間借り人」という組み合わせは、頻繁に登場する重要な設定である。
もちろんシャーロック・ホームズとハドソン夫人の関係性からしてその元祖のようなものなのだが、「下宿人」が登場するホームズものの短篇としては「赤輪団」と「覆面の下宿人」がまずは想起される(むしろ『マダムと泥棒』の設定と特に親和性が高いのは「赤毛連盟」かもしれないが)。またべロック・ローンズの『下宿人』(1911、ハヤカワポケットミステリ)と、そのヒッチコックによる映画化『下宿人』(1927)では、謎の下宿人の意外な正体が追及される。
要するに、昔からロンドンという街は建物が立て込んでいるせいで「大家さんが自分の住む住居に他人を下宿/間借りさせる」という制度が一般化していて、そこにミステリやサスペンスの「種」になる要素がいろいろと眠っていたということだ。
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原題のLadykillersという英単語は、
「女殺し」ではなくて「女たらし」の意味。
すなわち、老婦人に付け入って篭絡しようとする五人組を指している。
ただ、僕はとある「見込み」をつけて観ていた。
これは、ある種の言葉遊びなのでは?
一見「女たらし」と思わせてその実、本当に「老婆を、殺す」話であるという可能性も匂わせつつ、さらにそこからもう一歩逆転の発想で、実際は「老婆が、殺す」話なのではないか、と。
なにせ、この婆さん、どこか不穏なのだ。
冒頭、警察署を訪ねる日課の途中、乳母車の赤ん坊と目があった瞬間、赤ん坊が火がついたように泣きだす。なにかがおかしい。婆さん、得体が知れないぞ!!
しかもその直後のシーンで婆さんは、家のポンコツ給湯器を動かすために、備え付けの巨大なトンカチでパイプを殴りまくるのである。
やっぱり、なんかおかしい。婆さんが最後に取り出す「得物」こそ、まさにこれじゃないのか??
それから、婆さんの飼っている三羽のオウム。こいつらが「ヘエエエエエルプ!!」とか金切声で鳴き叫ぶのだ。怪しくない?? だって、近くで誰かがそういった声を出さないかぎり、オウムって悲鳴を真似したりしないんじゃないか?
というわけで、それこそ『毒薬と老嬢』や『シリアル・ママ』みたいな落ちを期待しながら観たんだけど……結果については敢えて言いません(笑)。
まあ「裏をかかれた」というよりは、
そう考えるヤツも多かろうということで、
作り手側は、むしろ徹底して、ある種の
「逆張り」で仕上げてきたってところだろうか。
ちょっとノリとしては、むかし「週刊少年マガジン」でやってた『カメレオン』とかに近い。
もっと一般的な例でいえば、チャップリン映画とか、ピエール・エテックスとか、「ピンク・パンサー」シリーズのクルーゾー警部とか。
要するに、主人公は別段気にせずいつもどおりの行動をとっているだけなのに、周りが「勝手に」反応しすぎて全てがめちゃくちゃになっていくパターン。
まあ、喜劇の王道ですね。
とはいえ、奇妙なノリの映画ではある。
中盤までのいかにも舞台劇調のシチュエーションコメディから、終盤になって一転して『ファイナル・デスティネーション』みたいなノリに切り替わるのだから。
のんびりとした感じで最後まで観られるわりに、なんだか恐ろしいことに終盤なっていくので、「この語り口でこんな話やるんだ」とぞくっとする人も多いのではないか。
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●相変わらず何にもチェックせずに初日に来てみたのだが、映画を観終わったらトークショーが付いててびっくり。しかも、出てきたのが映画ライターの山崎圭司さん……「なんだこの人、Z級ホラーやイタリアン・ジャッロ以外の映画でも仕事するんだな」と(笑)。
話している内容は概ね英語版のWikiとIMDbのトリビアに載っている内容だったが、話芸が巧みで楽しくきかせてもらった。
●アレック・ギネスが主演というのはチラシを見て一応認識していたのだが、いざ老婆の家に入ってきた「プロフェッサー」がちっともアレック・ギネスの顔をしていなくてびっくり!
メイクも異様だし、これ、もしかして入れ歯とかしてます?
山崎さんいわく(あとでネットでも確認)、もともとこの映画のプロフェッサー役は、当時性格俳優として高名だったアラステア・シムにオファーされる予定だったが、シムの都合が合わずギネスに回ってきた。そんなこともあって、彼は役作りに「アラステア・シムの風貌や演技をそのまま取り入れた」のだという。
アラステア・シムといえば、一般的には『クリスマス・キャロル』のスクルージ役でよく知られているようだ(僕は未見)。僕個人は昨年、クリスティアナ・ブランド原作(『緑は危険』)の『青の恐怖』を新宿K’s CINEMAで観て、そのときに名探偵コックリル警部を演じていたのが初見だった。かなりクセの強い味のある俳優さんで、一見したら顔も演技も忘れられないタイプ。実際、プロフェッサーの初登場シーンでは「あれ?? アラステア・シムじゃないの、これ??」とマジで思ったくらいだった。
あとから、まさにギネスがシムの「真似」をしていたと知って、おおいに得心が行った次第。
●悪党一味のなかには、ピーター・セラーズとハーバート・ロムの若き日の姿が見出される。ピーター・セラーズは若造風で若干肥っているし、ハーバート・ロムも神経質な殺し屋の役で田中要次みたいな顔をしている。まだ両名とも個性バリバリとは言い難いが、まさかこの二人がのちに『ピンク・パンサー』シリーズで、クルーゾー警部とドレフュス主任警部という不倶戴天の敵どうしを演じることになるとはね。
ちなみにピーター・セラーズはアレック・ギネスのことを心から尊敬しており、初めて大きな役のついた映画で彼と共演できたことを心から喜んでいたという。またハーバート・ロムがずっと帽子をかぶっているのは、このころ舞台で『王様と私』の王様役をやっていて頭を剃り上げていたかららしい(山崎さんいわく「若い頃のハーバート・ロムはユル・ブリンナーによく似ている」)。
●少佐役のセシル・パーカーは、前年の54年にもアレック・ギネスと共演している。なんとこれがチェスタトンのブラウン神父ものの映画化(「青い十字架」が原作らしい)で、アレック・ギネスがブラウン神父役、セシル・パーカーが司教役、そしてフランボーをピーター・フィンチがやっているそうな(笑)。なんで俺この映画の存在を今まで知らなかったんだろう? 観てええ! 超観てえええ!
●ワンラウンドって、たぶんもともとヘヴィー級のボクサーで1ラウンドKOを重ねてこの綽名がついたのだが、今はパンチドランカーになってしまったってことなんだろうね。
●逃げたオウムを捕まえようとして繰り広げられるドタバタは、前半のコメディとしての山場。各人の芸達者ぶりを堪能できて実に楽しい。さりげなく少佐の「私は高いところが苦手で」という発言は、終盤に向けての伏線だったりする。
伏線といえば、顔合わせの最後(駅への視察に行く直前)で、殺し屋がプロフェッサーに向かって「頭のおかしい奴しか思い浮かばないような作戦」みたいなことを言ったら、後ろ姿のプロフェッサーが大魔神みたいに怒りのオーラを発しながらこちらを向くシーンがあるが、これもラストに向けての伏線である(あのあたりの展開はかなり無理があるのだが、それでもこうやって「理屈」をちゃんと用意しようとするのは素晴らしい)。
●一刻も早くずらかろうとしているプロフェッサーのマフラーを婆さんが踏み続けるところと、次から次へと婆さんの友達がやってきて身動きがとれなくなっていくところは、純粋にドタバタとして面白かった。
●テーマ曲のように用いられているのは、ボッケリーニのメヌエット。もともとは弦楽五重奏向けの曲の第三楽章として作曲されたが、今ではさまざまなアレンジで演奏される。そういえば、この映画を観るまでの三日間、今更のように麻耶雄嵩の『蛍』を読んでいたのだが、まさにあれは弦楽五重奏の出てくる本格ミステリで、カルテット(四重奏)ならまだしも、クインテット(五重奏)というマニアックな室内楽団ネタがかぶるのは、けっこうすごいシンクロニシティだな、と。
●終盤の汽車の煙を「煙幕」として巧みに用いた展開は素晴らしい。肝心の部分を煙で隠すことで、話をいたずらにえげつなくせずに「コメディ」の枠内に踏みとどませている効果があがっている。天丼ネタとしても面白いし、なにより画面が美しい。
●最後に老婦人について。以下、ネタバレを含みますので、映画鑑賞前にはお読みにならないでください。
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老婦人を演じるケーシー・ウィルソンは、この映画で初めてメインの役回りを果たし、あと1本だけ出演してから2年後には亡くなった。器用な演技とは言い難いが、天然キャラとしての婆さんの凄味は十全に表現できていたと思う。
この老婦人が結局「何者」だったのかについては、いろいろ考えさせられるところがある。映画のなかで、彼女は何一つ悪いことをしていない。頑固で狭量でちょっと発達くさいが、それでも彼女はつねに善良でまっすぐに振る舞い、誰に対しても親切でありつづける。
婆さんが若い犯罪者を翻弄する話といえば、天藤真原作で岡本喜八が映画化した『大誘拐』が想起されるが、あれに出てきたとし子刀自は、もっとしたたかで策略家だった。同様のキャラクターとしては、クリスティの創造した名探偵ミス・マープルも英国の伝統に根差した「強キャラ」だが、彼女も明晰な知性をもって「意図的に」犯罪者を翻弄する。
一方で、本作の老婦人は常にただ善良であるだけだ。正直、あまり何も考えてはいない。だが本人の意図に反して、結果的に五人の犯罪者集団を自壊に追い込むことになる。
たしかに自壊の要因としては「数日間一緒に過ごして情の移った犯罪者たちが婆さんが殺せなくなった」ことがあるのだが、そこまでうまくいっていたグループが「婆さんを殺さざるを得ない」シチュになった瞬間に次々と「流れで死んでいく」運命に陥るのは、いささかオカルトめいてもいる。
トークショーで、山崎さんはこの老婆のことを「一種の神」と呼んでいた。
本人が意図するしないにかかわらず、まわりの運命に絶大な影響を与え、自然とあるべき道徳的な落ちへと物語を導いてしまう神。畏れ多くも敵意を向けたりすれば、決して無事では済まされない断罪の神。
やっぱり「おばあちゃんは最強」って話ではあるんだけど、本人が単純に善意で動くだけで何も意図していない分、逆に「一つ家伝説」的な不気味さがコメディの隙間からぬめっと漂って来る。そこがこの映画のいちばん面白いところだと思う。
大傑作犯罪コメディ
文句のつけようがない大傑作犯罪コメディ。
お節介でお人好しの未亡人マダムの家に「教授とその友人」を騙る強盗集団が住み着いてしまうという単純な筋立てだが、とにかく映像が凄い。
素朴な部屋に注意深く配置される人物とオブジェクト。そして思いがけぬ位置からゆったりと動き出すカメラ。視覚的な動性と混じり合うことで会話劇は演劇を離陸し、映画へと羽ばたいていく。
特にオウムというオブジェクトが素晴らしい。人物の間に挟まって空間の立体性を強調したり、時には物語の前面に躍り出て場を引っ掻き回したり、モノとヒトの間を絶えず往還する放埒さが清々しかった。
終盤に繰り広げられる自滅劇は圧巻だ。リズミカルなカッティングと音響効果によってどうしようもない惨劇をあくまで喜劇的に描き出す。マダムの自宅の後ろにある線路を用いた一連の活劇も最高だ。画面に漲る緊張が機関車の煙によって一時的に弛緩し、それが消えた瞬間にまた緊張が走る。この繰り返しこそが活劇のキモだろう。
アレクサンダー・マッケンドリックという監督はあまりにも埋もれすぎなんじゃないかと思う。もっと他の作品を観てみたい。
善良なおばあちゃんの破壊力
おしゃれイギリス映画
これ、面白い! 英国のノスタルジックな風景から始まる。ほんわかと憎...
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