CROSSING 心の交差点のレビュー・感想・評価
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無想花
ジョージア映画は、最近も「蝶の渡り」が素晴らしかった記憶あり、でもって見たかったイスタンブールが舞台の映画でもあるとなれば見逃す訳にはなるまいの一心で駆けつけました。
LGBTQテーマは正直供給過多で食傷気味ではあるのだが、これは当事者からさらにスポットライトを広げてる感じがしたのでまた違った新味が出てました。
姪を捜すリアが私の祖母にけっこう似ていて、若いアチに自分を重ねる感じになり特別に刺さりました。
祖母は、血すじは日本国内のみのはずですが、目元がちょっとコーカサスっぽい感じがありましたw
祖母とは血のつながりがなく、それ以前に自分はかなり気難しい孫だったので、だいぶ余計な思いをさせてしまっていたと思います。一緒に旅行したこともなかったし、リアみたいな、祖母の若はしゃぎとか泥酔しての嬌態なんてのも、当然ですが目にしたことはありません。
祖母がほんとうはどんな人であったかと本気で問うなら、自分が18で家を出たまま永遠に分からないままです。
だからというか、アチとの関係がしっくりと構築された終盤は、見ていてとても清々しい気持ちになれました。
この映画の本筋とはかけ離れた私事書き連ねてしまいましたが、そうしたことで心が占拠されてしまう映画でした。
そういう映画もたまにありませんかね(´;ω;`)ブワッ
猫に優しい国にて
LGBTQにまつわる人生や家族の姿を西アジアの市井の人々の視点で描く
映画冒頭に字幕で示される「ジョージア語とトルコ語には、文法上の性差がない」のメッセージ
品詞に性別があるドイツ語、フランス語、スペイン語などの外国語の文法に少しでも触れたことがある諸兄なら、
「いや、英語も日本語も文法はそう(性差ない)じゃん」
と思われるかもしれませんが、さに非ず
どうやら、本作の舞台となるジョージアやトルコの言葉には、「彼」や「彼女」の区別、つまりそれを示す単語(HeやShe)がないようなのです
つまり、これは
「それなのに、(彼らは)それぞれの立場で、自分があるいはその家族がLGBTQ(彼なのか彼女なのかの問題)について悩み、悩まされ続けている。皮肉な話ですね」
という提示
本作は、ジョージアやトルコに生きるそれぞれの登場人物の、LGBTQや家族・親子関係をめぐるアイデンティティの問題を、旅(人生)を通じて描く、ロードムービー
観る側にとって、この映画の最もいい点だと思うのは、この旅を始める2人の本来無関係なジョージア人(グルジア人)が、LGBTQの問題について客観的な (学問的な、あるいは社会学的な) 知識を持った人たちではなく、単に、そういった家族の問題に否応なく直面させられることになった一般人だ、というところです
視聴者は、この登場人物達の立場で、目線で、このストーリーに没入する。そして、ある人物を当てもなく探すこの旅の状況を理解し、追体験することになります。何気ないけれども、よく練られ、造り込まれたプロット、物語だと思います。劇的な出来事や、あっと驚く展開はなくても、映画を通じて味わい深い体験をすることができます
ラストには、一瞬「えっ!?」と思わせる展開が待っていますが...
あぁ、そういうことかと。
(好き嫌いは分かれるかもしれませんが) 技アリの演出。これによって、映画全体の印象が一層深まることになると思いました
イスタンブールの路地裏にて
ジョージアの国境を超えトルコに入った時、アチがリアに景色は同じだなぁ、。と言っていた。海岸沿いの陸続きの国境であれば当たり前の話だが国が違えば言語も違うし文化も違う。トルコ(とりわけイスタンブールは)は歴史的に多様な民族が行き交い、そしてそれを受け入れてきた。元ソ連の小国であり経済的にも恵まれてはいないジョージアの人々にとっては憧れの地であると思う。
10年以上も前だが、私は大きなM&Aの交渉の為(残念ながら失敗)に3回程イスタンブールを訪れていた。現地エージェントのエスコートで仕事してたので観光はアヤソフィア(改修前)やガラタ塔位しか行ってない。滞在したホテルやレストランを含め綺麗なところしか知らなかったので、この映画でイスタンブールの裏路地や歓楽街の雰囲気が見れたことが少し感慨深い。又ゆっくり行ってみたいと思う、。
邦題のタイトル通り、心と心の人間同士の交差点をLGBTQを背景に淡々と描いている。ラストにリアがテクラと偶然再会するところでジワっとした。それは幻だったが、希望はリアにもアチにもエヴリムにも差し込んでいたように思う。
世界は何処もかしこも自国優先に傾きLGBTQもSDGsも関心は薄れていく。エルドアン大統領もトランプ大統領もプーチン大統領もこのような映画を観ることはないのだろうなぁ、。
なんの関わりもなかった世代・性別の異なる3人の人物がある一点で交わ...
ラストは思わずウルッときた作品
ミモザフィルム配給、ジョージア映画は良作が多い中今回の作品も素晴らしかった。リア先生と青年アチのトルコへ孫でトランスジェンダーのテクラを探すロードムービーだが、ラストは思わずウルッときて感動したし胸に染みた。色々、考えさせられる作品。見事。
相容れぬ3人の葛藤と融和!!
「クロスする現実」と「クロスしない現実」の間でどう生きるか
イスタンブールの喧騒の中で、いくつもの交差があり、交差しないすれ違いもある。
アイデンティティ、ジェンダー、国籍、言語、年齢、過去…。
早朝の静かなイスタンブールの街を歩いたことしかない私には、映像が生々しく迫り、目を閉じると、空から街を俯瞰している自分がいた。
リアルと想像の境界が消え、ゾワッとして慌てて目を開けた。
舞台は、政府がLGBTQ+に否定的な立場を取っているとも言える、社会的な制約や差別が続くトルコ。
ジョージアからトルコへ、消えた姪を探すリアと同行する青年アチの旅。
国境を越えた時の、アチの「何も変わらない」と、リアの「当たり前でしょ」。
国境というものは、人間が引いたただの線なのだと実感させられた。
否が応でも、民族もアイデンティティも無視され、直線で引かれた国境を思い出す。
このセリフの奥に、地図の上に引かれた人為的な線、
男女という二分法の線、マジョリティとマイノリティを分ける線への皮肉が見えたのは私だけだろうか。
アチを同行させた理由を想像してみると、リアは国境を越える前から、境界線を全部取っ払って行動することを決めていたということか。
救えなかった記憶を抱えたまま、それでも他者と共に歩けるか。
他者の尊厳をどう認めるか。
生きる理由を失ったとき、人はどう生き続けるのか。
を問う作品だと感じた。
noteでは、YouKhy名義でアフリカでの「クロスしない現実」の体験と本作を重ねたエッセイを書いています。
出会いが人を変える
行方不明のトランスジェンダーの姪を探しにジョージアからイスタンブールへ旅する元女教師と連れの青年。捜索を手伝う、やはりトランスジェンダーの弁護士。三人の三日ほどの日を描く。結局、姪は見つからないが三人が出会ったことでそれぞれの生き方に変化が起きる。特に女教師。弁護士とのふれあいの中で、自己の中に差別意識はなかったのか、自分を見つめる旅となった。出会いは、人生の交差点。人は様々な交差点を渡りながら選択を重ねるのだろう。
女教師の役者がまず、凄い存在感。岩のようで女に見えない。が、男にときめいた途端、まさに女そのものの表情で踊るシーンに魅せられる。
トランスジェンダーの弁護士役も、いい。これまでどれほど傷つけられてきたか。しかし、弱いものに手をさしのべ、誇りを持って常に前を向こうとする姿が演技ではなく感じられる。
実際、この方はトランスジェンダーだそうな。
ことさらドラマチックに描かず、淡々とすすむのもGOOD。良作、好みです。
行方をくらました人を探す意味を追う中で、その隙間を埋めるのが「もしもの会話」だったのかもしれません
2026.1.15 字幕 アップリンク京都
2024年のスウェーデン&デンマーク&フランス&トルコ&ジョージア合作の映画(106分、PG12)
失踪した姪を探す元教師と案内役の青年を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本はレバン・アキン
原題の『Crossing』は「交差点」という意味
物語の舞台は、ジョージアのバトゥミ
兄ザザ(Levan Bochorishvili)の元で居候をしているアチ(ルーカス・カンカバ)は、自分たちを置いてジョージアを出て行った母に想いを馳せていた
そんな彼の元に、かつてこの家で居候をしていたテクラ(Tako Kurdovanidze)の叔母リア(ムジア・アラブリ)がやってきた
リアは妹の死に際して交わした約束を守るためにテクラを探していて、彼女がこの地に訪れたことを知っていた
だが、テクラはすでにイスランブールに行っており、居場所の特定には至らない
そこでリアはイスランブールに行くことを決め、アチは通訳をするから連れて行ってほしい、と懇願する
そして、リアはアチを連れて、トルコに入ることになったのである
映画は、ジョージアから出たかったアチが、これぞチャンスとばかりにリアについていき、そこで自分勝手な行動をしていく様子が描かれていく
リアはアチに呆れ果てて、単身で溜まり場などに向かうものの、有力な情報は得られなかった
だが、無作為に動いていたアチは、トランスジェンダーを支援している団体のことを知り、リアと共に支援活動家のエヴリム(デニズ・ドゥマンリ)と会うことになった
そして、彼女の伝手にて居場所を特定するという流れになっているのだが、エヴリム自身はかなり早い段階で登場するものの、リアたちと絡むのはほぼラスト近くという感じになっている
物語は、自分を置いて出て行った母親を追うアチと、テクラに対して冷たくあたったことを後悔しているリアが主体となっていて、エヴリムはイスタンブールにおけるマイノリティの様子を示すキャラとなっていた
アチはチェルケス族のオズゲ(Derya Günaydin)と出会って楽しい夜を過ごし、リアもレストランで出会ったラマズ(Levan Gavrichidze)と良い雰囲気になったりする
エヴリムの方も旺盛で、ムスタファ(Soner Yalçin)という恋人がいるかと思えば、白タクの運転手オメル(Ziya Sudancikmaz)とワンナイトラヴに陥ったりする
イスタンブールが開放的なのかどうかはわからないが、旧ソ連とトルコという風土の違いはあるのだろう
また、アチの場合は兄夫婦の家に居候しているという日常があり、早く自立したいという思いはあったのだと思う
母が向かった先でもあり、ジョージアに未練がないことも相まって、帰るという選択肢はなかったのだが、その胸中をリアに告げないために余計な誤解を生んでいるシーンもあった
そして、ラストにサプライズ的なテクラの登場があるのだが、あれは幻覚で間違いないだろう
イスタンブールを去る前夜にて、アチから「会ったら何を言いたいか?」という質問を帰り道で思い出し、それが脳内でテクラを呼び出したのだと考えられる
その姿はリアの想像するものなのだが、アチがそれを聞いたのも、母親との思い出が重なっているからだった
もし母がアチと再会したら何と言ってくれるのか
この叶わぬ双方の願いの着地点があの場所にはあって、それによって、それぞれは過去を乗り越えて生きていけるのだと思う
そう言った意味において、テクラとの再会は叶わなかったものの、好意的な終幕だったのかな、と感じた
いずれにせよ、文化的な背景への理解とか、LGBTQ+関連の知識はそこまで要しない作品で、新天地に希望を持って出て行った人を追いかける意味があるのか、を描いているのだと思う
そして、残された人の目線で「残されたものが何を感じているのか」を突きつけていて、それが相手に伝わる意味のないことも描いていた
「姪っ子は探して欲しいと思っているか?」と聞かれるシーンがあり、その答えが「母親との約束だから」というものなのだが、これはリア自身が主体的にはなれていないことを示している
そうした先にあるアチとの「もしも」というものは、約束を果たすことの意味を打ち壊し、主体的な自分を取り戻す瞬間でもあった
そう言った意味において、この旅には大きな意味があったのかな、と感じた
26-010
イスタンブールの街の臭いが漂ってくる
西洋と東洋が交わるイスタンブール、この物語の舞台にはふさわしい街です
一期一会 いい言葉です。でも常に運命的な出会いや一生ものの関係が生まれる瞬間というわけではありません。もう二度と会わないかもしれない一瞬の接触、紙一重のすれ違い、我々の人生に無数にあるクロッシング。
行方不明のトランスジェンダーの姪を探しにジョージアからトルコへやってきたリアとアチの旅に、イスタンブールで弁護士をするエヴリムの人生が交差します。
エヴリムはとても親切。人権派の弁護士で自身もトランスジェンダーということもあるのでしょうが、親身になって姪探しに協力するだけでなく、金のない二人に食事を振る舞い、ダンスにも招きます。
でも結局姪は見つかりません。そして交差した三人はそれぞれの想いを胸に、それぞれの方向へ進んで行きます。エヴリムはリアと同じ教師志望の彼氏といい感じに、アチはイスタンブールに留まり居場所と自分探しを続けることに、リアは自責の念を秘めたままジョージアへ戻ります。
脚本次第ではもっとドラマティックにとか、逆にもっと悲劇的に描けたかも知れません。ある意味薄味です。でも実際、日常や人生ってこんな風に小さな交差の連続で過ぎていくのではないでしょうか。
ジョージアから黒海経由で国境を渡りトルコへ、さらにフェリーでイスタンブールへ。
賑やかな市場の喧騒の一方で裏町の娼館や安ホテルの寂れた感じなど旅情を掻き立てます。ジョージア語、トルコ語、英語の3カ国会話の難しさやなど異邦人の旅行という雰囲気もよく出ていたと思います。
“Crossing“はクロッシング、もしくは交差点で良い
チェコなど旧東欧諸国や、映画の舞台となったトルコの作品なら、少ないながら散見された。
しかし主人公たちの出身であるジョージア(旧グルジア)が製作国の一つというのも珍しい。
そのジョージアからトルコのイスタンブールを舞台とした、人探しロードムービーだ。
ロードムービーだから、見知らぬ人との出会いと不審、あるいは少しずつの理解が描かれる。
映画というのは、こうして聞いたこともない言語の響きや、独特の挨拶や感謝の表現、もてなしや思いやりの仕草に触れられるのが良い。
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もう一つ、へぇ!と思ったのは、冒頭に表示された「ジョージア語とトルコ語には性別の品詞がない」という象徴的な字幕である。英語にゃあんまりないと思うが、ドイツ語やフランス語は性別品詞に応じて文法やら冠詞やら動詞の変化があったと思うので(すでに記憶の彼方)、往生した覚えがある。
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それはさておき。
物語の終盤、かつて母に捨てられたアチが、旅のあいだずっと騙して迷惑をかけてきたリアおばさんとの別離の時に、ふと抱き着く瞬間は、ちょっとキテしまった。
この作品は、初老を迎え天涯孤独なリアのたった一人の肉親を探す旅だったけれど、肉親ではないアチとのあいだに血縁とは関係のない、血縁以上の忘れがたい繋がりを残したのだ。
そして、最後の姪との再会シーンは一瞬のカタルシスを得たけれども、それはリアの願望であり幻想だったのか。
そんなハッピーではない結末になったけれど、鑑賞後の余韻は好ましく、「この街に残る」と決意したリアのフェリー上の姿は、いつまでも印象に残っている。
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最後に後味の悪い苦言を呈したい。
また配給の悪いクセだ。なぜ「心の交差点」などという余計なサブタイトルを付けるのか。
『エディントン』もそうだった。「〜へようこそ」など、まったく不要なのに。
そうやって余計な「サービス」をしないと、こちらに「観よう」という気が起きないだろうと思っているのだろうか。
あるいは単に『エディントン』だけ、『クロッシング』だけでは、鑑賞者が作品の内容を想像できないと思っているのか?
しかしそれはイコール鑑賞者をバカにしているに等しい。
もっとはっきり言えば「このくらい『説明』しないとあんたらにはわからないだろう?」と言っているのと同じだと思うのだが。
これ、たぶん昭和のアナクロな習慣を何も考えずになぞっているだけに過ぎないのだろう。
配給の宣伝担当の若手はうんざりしているんだと思うが、平成な感覚が抜けない中高年の管理職が、昭和な感覚しかない「もっと上」から何か言われたらどうするんだ、と忖度して
「キミぃ、そんな尻切れトンボなタイトルじゃ、客が呼べないだろう」
みたいな有形無形の圧をかけているんだろうな。
こういう、要らぬサブタイトルはそれだけで配給側の余計な価値観を押し売りしている。
なぜ『エディントン』だけで良いのか? それは「ようこそ」もクソもへったくれもない、ただ厳然とそこにある田舎町のエディントン、とだけ言いたいのだから。本当に「ようこそ」が作品のメッセージとして在るなら、アリ・アスターはタイトルを“Welcome to Eddington“にしただろうが。
“Crossing“はあくまでクロッシング、単なる交差点だ。イスタンブールという大都市そのものが、人が来ては去って行く交差点だ、という比喩である。
それは近隣諸国も含めて、土俗的なコミュニティでは生きていけないマイノリティたちが、生きづらさから逃れるために漂流して辿り着く交差点なのである。
「心の」、などというくだらない、インテリジェンスの欠片も感じられないサブタイトルは付けるべきではない。
ジョージアとトルコにルーツを持つ監督の目線が優しい
レバン・アキン監督は、
祖先が19世紀後半にジョージアからトルコへ移住、
さらに両親が1965年にトルコからスウェーデンへ移住、
というルーツの人で、ゲイであることを公表している。
だからこの映画が
ジョージアとトルコにまたがるLGBTQの話なのは、
ごく自然。
* * *
映画の冒頭、
「トルコ語とジョージア語には、文法上の性がない」
というテロップ。
日本語と英語からすれば、
ナンジャソリャ? となる記述だが、
世界の言語の半分は「文法上の性」を持つという。
(いわゆる「女性言葉」とは別の話)
>グレヴィル・コーヴェットは世界257の言語について、性がいくつあるかを調査した。
それによると、性のない言語が約半数で145、性が2つある言語が50、3つある言語が26、
4つある言語が12、5つ以上ある言語は24あった(Wikipedia)
だいたいは名詞の話なんだが、
たとえばフランス語では、男性名詞と女性名詞、
ドイツ語ではそれに加えて中性名詞、
スラヴ語では男性をさらに活動体と不活動体に分け、
ポーランド語に至っては複数形を男性人間と非男性人間に分けるとか、もう何言ってるか分からない。
それにしても
文法性がないから性差別がないとか、
文法性が5つ以上あるから違いに細やかとか、
いうことは全くなく、
だからトルコ語とジョージア語に(そして日本語にも)文法性がないとはいえ、
両性の区別からはみ出す者には、容赦ない差別が浴びせられる。
* * *
とはいえその差別の程度は、
田舎と都会では質量ともに異なる。
だからジョージアの田舎に耐えられなかったテクラは、
隣国トルコの都会、イスタンブールへ逃げた。
イスタンブールは、東西世界が交錯する混沌とした都会。
姉を亡くした元歴史教師リアは、
ひょんなことから同行することになった頼りなくいい加減そうな若者アチ
(彼は彼で、母親がイスタンブールへ行ったまま行方不明と聞かされていた)
とともに、姉の娘テクラを探しにイスタンブールへ。
他方、イスタンブールでは、
イスタンブール大学を出て資格をとったばかりのトランスジェンダーの弁護士エヴリムが、
LGBTQの支援NGOで活動中。
この3人(ポスターの3人)が交錯して、
リアにも、アチにも、ある変化が。
そしてそこに、監督の優しい目線を感じる。
* * *
物語は、ほぼイスタンブールで展開するので、
宣伝文句にある「ロードムービー」はちょっとどうかと思うけど、
心の旅路、という点では、そう呼んでもいいかもしれない。
字幕翻訳には性差有り
イスタンブールにいるという姪を探す元教師リアと、彼女のお供をする元教え子の弟アチのロードムービー。
ジョージアの村で兄夫婦とアチの暮らす家に、昔ここに住んでいた姪を探しているとリアが現れて始まって行く。
この家が昔館だった?兄貴のヨメもそこで働いていた?そこにトランスもいた?その中の1人がテクラで知っている?と情報が多い中、アチが今の住所を知っているとか、イスタンブールに引っ越したいとか、通訳が出来るとか言い出して、2人で出かける流れになるけれど、その年頃で文無しですか…。
テクラ探しと並行して、トランスの自称弁護士も登場してくるけれど、日本人とはまるで感覚が違う文化的なものが沢山みられてなかなか興味深い。
更にヌコ天国なのも興味深いw
そしてボンクラなりにリアを気遣うアチと、それを感じて心を開くリアと、なかなか面白い関係性だった。
ラストはイメトレかよっ!?とツッコミを入れたくなったけれど、なかなか良かった。
ただ、旅行ぐらいなら良いけれど、自分はこの国じゃあ暮らせないな…w
日本は暮らしやすいけれど、生きにくいかも知れない。
日本は治安が良く清潔で何か紛失しても持ち主に届くし、公共交通機関は時間通り運行であることが普通で、人々はお行儀よく物静か、どこにもコンビニあって日曜だって買い物できて、殆どのトイレは無料でキレイ、と外国人観光客に言われて(言われなくても)嬉しい日本人は少しは(または沢山)居るのだろう。でも私は日本は本当は生きにくいんじゃないかと最近思う。この映画で舞台となっているジョージアもトルコも昔ながらの家父長制が根強く残っている。だからジョージアから逃げた姪もいるし親に銃殺された子どももいる。日本ではヤングケアラー、宗教二世、もっとあるな。日本ほど若い人の自死が多い国もない。
自分も含めて、日本人の親切は表面的だと思う。あまり入り込むと迷惑かなと思ってしまうように思う。匿名でいられる都会は楽で快適だ。それがSNSの匿名状態になるとなぜ意地悪で攻撃的になるんだろう?人をいじめることが快感になるんだろうか?選択別姓も同性婚も男性より女性の方に賛成の割合が多い。それは同姓義務に縛られて困っている女性が圧倒的に多いからだろう。一方で私は、結婚相手の女性の姓にした男性をたくさん知っている。世代は生きてたら百才以上の人から結婚当時20代の人まで幅広い。でも日本人と結婚して日本で暮らして働いている外国人友人は、別姓もいれば相手の日本姓を入れている人もいる。自由ともいえるし、筋が通ってなくて外国人差別のようにも見える。でもその外国人だって税金も健康保険料も払っている。同性婚だって、日本人が好きな表現「人様に迷惑かけなければ」を使わせてもらえば、誰にも迷惑かけないのに。
イスタンブールで色々な人に二人(姪を探す元・歴史教師のリアと青年アチ)は出会うが、何のかんのいって、みんながワイワイと意見交換して「知らない」と結論を出してくれる。その後出会った、NGOで働く弁護士エヴリムはリアの姪テクラを探しに二人とフェリーに乗って一緒に行ってくれる。仕事がNGOだから、弁護士だから、エヴリム自身もトランス女性だから、と言ってしまえばそうかも知れない。でもイスタンブールという大都会で、小さな子ども二人が食べるために楽器と歌でレストランのテーブルを回って稼ぐ、彼らはお腹すいているしお母さんに会えない、でも元気でニコニコしている。夕食時のレストランでは花を売って回る人が居るのも普通だ(花売りはイスタンブールに限らないだろうけれど)。
日本は知らない人とエレベーターで一緒になってアイコンタクトをまずしないし、まして挨拶しない(エレベーターの大きさやどこのエレベーターかに勿論依存する)。エレベーターだけでないけれど、なんかもわーっとした蜘蛛の巣みたいな「こっちに入ってくるな!オーラ」を強く感じる。
何を書いているのか訳がわからなくなってしまった。時の大統領の政策や選挙運動で恐ろしく見えるトルコ。映画でも混沌でゴチャゴチャのイスタンブール。そんなイスタンブールを見て、住みにくい点もあるかも知れないけれど、人間としては全体的に生きやすいのかも知れないと思った。大きな街なのに猫をたくさん見かけたし、トランス女性達が集まって住んでいる建物が街の真ん中にあることに結構びっくりして、いいね!と映像から思った。
自然が美しいジョージアの町と都会イスタンブールの映像、主役のリア役のムジア・アラブリが素晴らしかった;表情も歩き方も視線も涙もセリフも、強くて、笑えて、矜持がある。どのシーンだったか忘れてしまったが、眼差しが知的で深く美しくドキッとした。
全32件中、1~20件目を表示













