みんな、おしゃべり!のレビュー・感想・評価
全30件中、1~20件目を表示
わかりあえないけど、一緒にやっていける可能性
これはすごい。人の分かり合えなさについて深い洞察があった上で、きれいごとじゃなく一緒にやっていくために何が大事なのかをあきらめずに追いかけている。安易な多数派による包摂を批判しているのもいいが、それよりも本当の意味でマイノリティの視点から多数派の欺瞞を見せているのがすごい。最後はディスコミュニケーションのまま仲良くなってしまうのもいい。
本作はろう者のコミュニティとCODAの娘、それからクルド人コミュニティと日本育ちのクルドの青年が登場する。互いに言葉が通じない2つのコミュニティはことあるごとに衝突する。間に立たされるCODAの娘とクルド人青年は通訳をさせられるわけだが、2人の通訳に関するスタンスの違いがとても興味深いポイントで、ここは是非みなさん鑑賞して考えてほしいポイントである。
本作は異文化同士の衝突であり、言葉をアイデンティティとする人々の物語でもある。日本手話という日本語とは異なる言語と、母国では使用できないクルド語。そして、子どもたちが編み出すなぞ言語。日本語も含めて4つの言語が出てくると言ってよいと思うが、言葉とはただの媒介ではなく、もっと深い何かであるというのが伝わる作品だ。
ひとをかたち作る言語
抑圧や消滅の危機にさらされてきた日本語手話とクルド語を主軸に展開されるこの作品は、どちらも”言語”であることを伝えている。
言語というものは、単なる伝達ツール以上に世界の切り取り方そのものを決めていて、アイデンティティと密接に結びついていると思う。
ろう者やクルド人が、「マイノリティ」と表現される場面がある。
計算し尽くされたこの作品において、それは意図的な演出だとは思うけれど
「支援」という構図が裏に見えると、強い違和感と、言葉で説明できないイライラが自分の中に湧き上がった。
その線を誰が、何のために引くのか。
対等でない舞台に追いやってしまうなら、
それはもう本来の意味(数量の大小)から外れ、まったく意味がちがうものになる。
多くの既存の言語や新たな言語が出てきた。
分かったつもりは危険だけれど、分かりあえないと決めつけるのではなく、分かろうとすることの大切さも受け取った。
舞台挨拶で河合監督は、敢えてどの立場の人にとっても、少し不便に感じるように字幕もバリアフリーも計算したと語っていた。
観客全員に「快適さの基準は自分ではない」という問いを投げかける仕組みをとり、価値観の違う他者と一緒の空間で見てほしいから配信はしない予定だそうだ。
考えさせられる作品であったと同時に、貴重な体験でもあった。
note【YouKhy】ではもう少し詳しく書きました。
ポスター、全くその通り!
字幕は作品の一部というテロップが最初に出てくるが、意味が伝わるところと、あえて置いてけぼりにされるところの塩梅が絶妙で、渦中に放り込まれたような感覚になって観ることができた。
笑ったり、考えさせられたり、ちょっとほろっとしたりの、かなりの良作。
本日、令和8年1月11日の段階で、上映館4館、レビュー数29の公開規模だが、多くの人にオススメしたい。
心に残ったシーンは、以下で書き残します。
<ここから内容に触れます>
・橋の上から、夏海が、向こう岸で釣りをしているヒワを見つけ、欄干を指先で叩いて気づかせるところから始まるシーンが、大好き。
ヒワは手話、夏海はクルド語であいさつをして、2人とも「えっ?」ってなってから、笑顔で両岸を駆け出して、橋の真ん中で落ち合う。
説明的なセリフがなくても、一発で気持ちの寄せ合いが伝わってくるこういうシーンって、「あぁ映画だなぁ」とうれしくなってしまう。
他の場面でも、2人のやり取りがとてもよかった。
・対話って、相手に重心を傾けて「分かろうとすること」がスタートだと思っている。
そのことが、言葉は使いこなしていても対話が成立しない担任教師などと対比的に、駿の文字を読み取るヒワ、老人の願いを理解する店主等の姿で示されていて、うんうんとうなずきながら観た。
・街の活性化の名の下に「マイノリティ」を一つに括ろうとする乱暴さ。そこには「自分はマジョリティ」と思っている者の傲慢さが炙り出されていて苦笑したが、多分、本当は自分も笑えない。
その証拠に、「ろう者は障害ではなく、言語括りにしろ」とか、「ヒワはその人が死ねって言ったら、相手に死ねって伝えられるの?」とかのセリフに、その度にハッとしたし、ろう学校の中での難聴者とろう者の児童同士のすれ違いとかにも、ドキッとした。
ちょっとわかった気になっていた自分に、喝を入れられた気持ち。
監督自身のコーダとしての体験があるからこその脚本であり、演出なんだろうと思った。
・NHKドラマ「デフ・ヴォイス」や手話ニュースの那須さん、「僕が生きてる、ふたつの世界」の今井さんも安定の演技だったが、父役の毛塚さんの存在感が半端ない。
それから、板橋駿谷と小野花梨も、こういう役が抜群にうまく、配役が素晴らしかった。
・子どもを大切にした展開がとても好印象。いさかいがあった子たちも、駿の言語カードで連帯し、電球を割ってしまった子にも、償いのチャンスを位置付けるという、監督の眼差しの温かさにジーンとくる。
・ラストシーンは突拍子もないように思えるけれど、よく見ると、ポスターにヒントは隠されていたw
なるほど! 確かにその通り。
・パンフレットが、対談やシナリオの決定稿入りで充実していそうなので、これから楽しみに読みたい。
🔦は照らすよどこまでも
クルド人と聾の人達がちょっとした誤解から❌️勃発、分かり合うまでのお話。
わざと大袈裟に描いてあるのだろうけど、最初は皆さん先入観でガッチガチ えっその姿勢で商売やるの!?という感じだった 子供はやはり自由な発想で良いな、駿君集中力がすさまじい、心配全く要らないのに担任のアレには可哀想にと思った 開けてみればコーダや多言語理解出来る子供の役割負担はやはり重いというお話 ヒワさんのクルド人の言語、地理解説大変分かり易かった
おそらく駿君のおかげで終盤やっと普通の対応に、そこからはめでたしめでたし
そしてハイパーライトの宣伝文句に偽りはなかった
それ、この映画で解決してるから
ぴあフィルムフェスティバル2021入選の野辺ハヤト監督がオススメされていたので12/1に鑑賞。
たまに、その映画を観る前と観た後で、全く映画の見方が変わるような作品に出会いますが、
『みんな、おしゃべり!』も、ちょっとそれに近いものがありました。
この映画を観た後は、どの映画を観ても
「その問題『みんな、おしゃべり!』で解決してるから。」と思ってしまう。笑
もはや、世の中のあらゆる問題を全て包括している映画と言っても過言ではない。
“障がい”や“人種”でカテゴライズされる人たちと、その仲介者となる子供たち。
アカデミー受賞作『コーダ』や『エール!』をご覧になった方も多いと思いますが、『みんな、おしゃべり!』は更に上の次元を描いた映画でした。
笑えるし、ブッ飛んだ展開に驚かされるし。
おっさん3人で台車を押す後ろ姿が、あまりにも愛しすぎて泣けました。
見終わった後、劇場の階段を降りながら、頭の中に広がる感想が日本語ではない自分に驚きました。
ぜひこの感覚を体感してほしい!
私たちは体の全てを使って伝えることができる。
矢野顕子 を彷彿とさせる音楽も「なるほど。だからか!」と納得。
小野花梨ちゃんも、考えさせられる役どころで出演されていました。
手話は言語だと言われていますし、国や地域に独自の手話があることは知っていましたが、“上手い手話”や“美しい手話”があることに気づかされました!
日本語だって方言もあれば、スラングや美しい言い回しもあるのと同じ。
手話はとても豊かな言語なのだと実感しました。
もう一つ心に刺さったのは、バイアスを取っ払って直接対話することの大切さ。
間に通訳が入ることの危うさも描かれていました。
今は便利なアプリもあるし、手話を含めた言語の壁はいくらでも低くできる。
たとえ間違いや誤解が生じたとしても、「伝えたい気持ち」と「知りたい心」でコミニュケーションを取り続けることが何より大切なのだと感じました。
ここまで盛りだくさんの内容を1本の映画に纏めた河合健 監督、すごいです。
良い意味でこの映画に捉われ続けています。
「コミュニケーションは言葉だけでない、想いは言葉を超える」
公開初日、舞台挨拶がおこなわれる満席の1回目を鑑賞した。映画館には上映前からホールにすごい人。特にろう者の方が多く、手話で会話をしていました。普段あまり接点がない人とスクリーンを見ながら想いを共有できるのは、まさに映画の力を感じました。
ストーリーは、電気店を営むろう者の父、和彦と仲間たちと弟、駿コーダの姉、夏海、街のPR動画を作る健常者、そしてクルド人の家族や仲間という、多種多様な人々が混然一体となり様々なことで対立したり理解し合うというものです。
河合健監督はコーダとして生きてきました。健常者として生まれ育つと、めったにろう者の方とコミュニケーションをとる機会はありません。ろう者の方も健常者に対して同様でしょう。ましてクルド人とコミュニケーションをとるなどまったくもって機会はありません。なぜか、互いに理解できる手話や言葉がわからず「会話」が成立しないからです。
「会話」が成立しないと誤解がうまれたり相互理解ができません。この映画でろう者の和彦と仲間たち駿と夏海は手話で「会話」をするので問題はありません。しかしクルド人となると言葉が違うことによって「会話」は成立しません。ただ日本で生まれ育ったヒワが通訳者として「会話」を成立させようとしますが、なかなかうまくいきません。ただ夏海とヒワは日本語が通じるので「会話」が成立し相互理解も進みます。夏海はコーダとしてろう者との通訳者として苦労しています。ヒワも日本語の通訳者として同様です。
手話や言葉が違うと本当にコミュニケーションはとれないのでしょうか。夏海とヒワは街に繰り出し、言葉にならない「デタラメ語」で楽しそうに「会話」しています。言葉がわからなくても気持ちは通じ合うのです。駿がそのことを代弁しています。駿はヒワのノートを見てトルコ語をもとにオリジナルのカードを作成します。そのカードでヒアや友達や家族と充分コミュニケーションがとれるのです。
反目していたクルド人が和彦の店に来てクルド語で「あなた電気屋だよね。店の停電を直してくれ」というが、和彦は言葉も聞こえないし、クルド語もわかりませんが、なんとか身振り手振りで指示を出したり懸命に修理し、無事停電が解消されます。
夏海とヒワの「デタラメ語」、駿オリジナルのカード、和彦とクルド人たちとの和解。言葉がわからなくても、伝えたい気持ちがあれば想いはつながるのです。きっと映画館で字幕を観ていたろう者の方々と健常者も「言葉」という壁を乗り越えて映画を楽しんだと思います。
河合健監督の本作にこめる想いの強さが伝わってきました。現場ではろう者の方、健常者、クルド人が入り乱れて、映画を作るのはカオス的状況でかなり苦労したと想像出来ます。また字幕の入れ方も変わっていてクルド語については一切字幕がついていません。それは映画を見る人にあえて「わからい」環境に置くことによって見る者の想像力を掻き立てようとしたのでしょう。そしてラストシーン。啞然呆然としましたが、どんな者とも必ずコミュニケーションは成立するという河合健監督の矜持が伝わったエンディングでした。
映画館で見て、非日常を体験しませんか。まだ上映中ですので未見の方はぜひ映画館で「わかりあえる」ことを体感してみてください。
オリジナル言語やジブリッシュまで、コミュケーション課題を描いた傑作
新年一発目は、昨年末単館公開なのに2025年ベスト入りに選んでる方がチラホラのこちら。同じこと思ってた同志で朝の回から満員御礼でなんか縁起よさそう。
電器店を営むろう者のシングルファーザーが、街おこしでお店が持ち上げられ、近くにオープン準備してるケバブ店のクルド人軍団とトラブルになる話。
家族で楽しめるドラマとして「侍タイムスリッパー」クラスのクオリティ。監督自身もCODAということは関係なく、むちゃくちゃスリリングでコミカルなエンタメになってる。
言語によるコミュケーション課題を描きつつ、じゃあどうすればいいかという提案まできっちり語るのに感服した。
演劇でデタラメ語でコミュケーションの演技の練習をするメソッド、ジブリッシュを表現してると思った。
衝撃のラストを観客に向かって突きつけるのも映画館での体験ならでは。
上映時間は長めですが、このくらいの尺かけて描くのは当然の内容。素晴らしかったです。
そうです、手話も言語で、文化です。
見たいと思ってるうちに、だんだん上映館が減ってゆき、大晦日の渋谷でやっと見ることができた。近場ではここしかなくなってた。
結構な人の入り。
作中の電柱の住所表記は蕨で、そうよね!って。近隣なんで、知ってる風景あるか探したりするのも楽しい。
私もコーダで親の通訳する時は、ただ言葉を訳する時や、身内として代弁する気持ちの時とか、色々複雑だけれど。
例え親の主張に私が納得できなくも、私の主観は消して通訳に徹するのが通常運転。それがろう者の人権を尊重した対応と思ってる。
だから私は私は、親と相手のコミニュケーションを邪魔しない空気みたいな通訳を心がけてる。
「死ね」と言ったら死ねと伝えられるの⁉︎ってなつみの言葉には私の胸が詰まった。
それは直接伝えろ、と断るかなぁ。死ねの手話は、手話しない人にもとてもわかりやすい手話だ。
喧嘩の通訳はやりづらそうだね!
人として、止めたくなるよね。
下手な手話、綺麗な手話って話が出てくるけど、本当あるよね。
電気屋には客を逃さないよう、もっと工夫のしがいはあると思うが。。UDトークをテレビ画面に繋いどくとか、電気屋なんだから、そこは、ろう者が「自宅もこんなふうにしたら便利になるな」ってイメージできるようなしつらえを展示したら良いし、店主も残念な思いしないで済むんじゃ?いや、映画上のエピソードとは思うけどね。
実際にこの店主役の方はラーメン店を営んでるとパンフに載ってたので、食べに行ってみようと思います。
素晴らしかった
前半話が通じないもどかしさが少し長く感じられるようなのんびりとどこかほのぼのと時々ピリっと進んでいき、力づくのラストまで、コミュニケーションが難しいのは言語の違いだけじゃなくてあらゆる場面であることで、日本語話者で聴者であっても話の通じない人たくさんいるし、でもそこで諦めるんじゃなくて試行錯誤してみようよ!というのが真っ当なことで、何か困ってる人がいて、自分に助けられるのなら助けようよ、というところに落ち着くのがなんて素晴らしいんだろうと感動してしまった。話が通じないからとシャットアウトするんじゃなくて。
それが説教くさくなくコメディーとして面白い映画になっていて良かった。
ユーロスペース渋谷にて。上映後自然と拍手が起こっていた。
真心とジェスチャーがあれば…
《街の電器屋の店主と息子がろう者で、娘は聞こえる人。接客を担当していた聴者の妻が亡くなって以来、客とのやりとりに苦慮する店主を娘がサポート。そんななか、店主と近隣に住むクルド人の間にトラブルが発生。親子の関係も微妙で──》
──ストーリーには少し入り込みにくい部分もあったが、大切な学びを得たので記録しておく。
まず、ろう者の方が、『聴覚障がい者』と呼ばれるのを嫌がるケースがあることを初めて知った。
AIにその理由を聞いたら、『多くのろう者は、聞こえないことを医学的な「障害」や「欠損」といったネガティブなこととは捉えておらず、むしろ、手話を第一言語(母語)とし、独自の歴史、習慣、価値観を持つ一つの「文化(ろう文化)」を形成している言語的マイノリティ(デフ・コミュニティ)であると自認し、自分たちのアイデンティティを肯定的に表現したいと考えているから』とのこと。
同じ理由で、聞こえる人のことを『健聴者』ではなく『聴者』と呼ぶことが多いらしい。
この知識は、今後ろうの方と接する機会があった時、大いに役立つだろう。
あと、鑑賞後にチラシを読んだら、かつて言語として認められず使用を禁止されていた二つの消滅危機言語(日本手話とクルド語)を題材にした作品、とある。。。結構大事なキーワードなので、できれば映画本編の中のどこかで、そのことに触れて欲しかった。。。チラシを見てなかったら、消滅危機言語だと知らないままだった。。。(もしも表現されていて、私が見落としてたのなら、ごめんなさい)
それから、大いに実感したのは、『真心とジェスチャーがあれば、言葉も国籍も星も超えてコミュニケーションできる』ということ。相手への先入観や思い込み、被害妄想は対話の邪魔になるということ。
私は手話も外国語も宇宙語もできないけれど、もしも今後どこかでろう者や外国人、宇宙人に出会っても、対話したい気持ちと身振り手振りさえあれば何とかなるのでは、、、そう思えたのは収穫だった。
新感覚の映画。知らない間に映画の世界観に没入してしまう面白さ
この映画の見どころは2つあった。
1つ目は「ユーモアセンスの気持ちよさ」。この映画は、ラストでとんでもない展開を迎えるのだが、その場面を観た時に観客が置いてけぼりにならないリアリティラインを構築するため、随所に気持ちの良いユーモアが散りばめられていた。
2つ目は「全ての登場人物に感情移入出来る」という演出力の高さだ。
監督のユーモアセンスを表現する出演者たちのキャラ設定もしっかり練り込まれており、宮崎駿作品のように「端役にも情が湧いてしまう」、そんな上質な作りになっていた。
この映画で一番胸にぐっと来たシーンは、電気屋の主人が息子、駿くんと亡き妻との間で交わされていた交換日記を見る場面だ。
最初の頃は、ちゃんとした言葉で日記を交わしていた2人だが、ろう者の駿くんが絵文字を使い始めたことで、2人はいつしか絵文字だけで日記を綴るようになる。
きっと、想像力を最大限に使いながら「言葉」という枠を超えて自分の気持ちを伝えたり相手の気持ちを思い図ったりする愉しさに2人は気付いたのだろう。
この映画では健常者、障害者、外国人など様々な立場の人達の中で起こるトラブルが描かれる。
そのトラブルの主な原因が「言葉によるコミュニケーションの不足によるものとして描かれていたが、映画を観終わる頃には(言葉を通じて意見を交わすことも大切だが、それよりも大切なのは『相手がそれぞれ胸の中で大切に守っている世界に気付いてあげることなんだ』)という事を気付かせてくれる映画だった。
『エール』『コーダ』を超える仲介者の苦労を不要とする当事者同士の伝え合い
教師を演じているのが小野花梨氏ではないかとわかるようになってきた。那須英彰氏が出てくると、テレビドラマ『デフ・ヴォイス』の演技が思い浮かび、期待が高まった。
クルド人青年が、電器店主の娘から教えられた名前の指文字を「はつみ」と微妙に間違えていたが、どちらかというと、「へちみ」の方がありそうに思った。
序盤で店に迷い込み、粗相をした女の子が代金をもってきたけれども、女の子はなぜその商品とぴったりの金額をもてこれたのだろうかとも思った。
エンドクレジットで、店主を演じた毛塚和義氏の名をみたとき、今年8月13日に放映されたNHKEテレ『ハートネットTV』で取り上げられたろう者だけのプロレス団体を創設し、現在は東京の西日暮里でラーメン店を営んでいると紹介された人物であったことに気づいた。
『エール』『コーダ』を超える仲介者の苦労を不要とする当事者同士の伝え合いという感じを受けた。それらの作品も、コーダの仲介者としての苦労と、恋や自分の才能と家族の捨て難さとの選択の葛藤が描かれていたが、本作では、仲介者は卒業しても大丈夫だよ、安心して自分の好きなことを選びなさい、と言ってくれているようである。2作と同様の趣旨もあり、まちづくりの観点を加えているところは、テレビドラマ『しずかちゃんとパパ』とも共通すると言って良いだろう。
パンフレットを読むと、監督自身がコーダであり、それまでドラマや映画で描かれてきたろう者像に違和感があったこと、なぜクルド人問題を取り上げたのかということ、クルド人問題を取り上げるに当たって、映画『マイスモールランド』の制作に関わった日本クルド文化協会事務局長の協力を取りつけ、その作品でもできなかったクルド人出演者を確保できたこと、ろう者関係作品に実績のある牧原依里氏を「監修」ではなく「ドラマトゥルク・演技コーチング」という役職に抜擢し、踏み込んだ演技指導を実現したこと、コーダ役の俳優がみっちり手話指導を受けたこと等が、インタビューによって明らかにされており、必読の価値がある。
本当に必要なのは、言葉ではなく思いやり。
ろう者の電気屋の親父とクルド人のカレー屋の親父 ひょんなことから揉めます。間に入ったコーダのなつみと日本生まれのクルド人のヒナ。いやあ、思い込みが入ると揉めます。そこに、街おこしの商工会の担当者 学校の先生
それぞれの立場で話すからね。最後は、宇宙人まで。
しかし本当に大切なのは、思いやる気持ちだね。
どのようにして分かり合うのか
聾者の電気店主と日本語の話せないクルド人レストラン店主が、ご近所トラブルで喧嘩するという何とも複雑なコメディですが、非常によく考えられ練られたお話でした。
聾者といっても、完全な聾者と難聴者・聴者だが両親が聾であるCODA(Child of deaf adult)と様々な境遇があり、その仲立ちとなる手話にも日本手話と日本語手話の隔たりがあります。また、クルド人と言っても、イラン・イラク・トルコ・シリアと出身国によって文化的・言語的背景が異なる上、日本で生まれ育ったクルド人もおられます。そうした人々は一体どうやって意思の疎通を図り喧嘩するのかと言う点に目から鱗の様々な視点が提示されるのです。
でも、結局は「分かり合おう」とする気持ちからスタートするしかないというコミュニケーションの基本に立ち返らざるを得ないのですが、そこに到るとんでもないラストが切れ味抜群なのでした。これは遣られたなぁ。
みんな大好きです
出演されている皆さんとても魅力的で作品がもつ普遍的なメッセージ性や懐の深さに終始感動しながらの鑑賞となりました。
国籍や言語のこと、難民問題のこと、ろう者の方々や手話についての認識、異文化間・家族間・大人と子供・男女すべてのレイヤーでのコミュニケーションのことなど重たく悲劇的なトーンで描かれてもおかしくはない題材ですが、本作は暖かい眼差しとユーモアに溢れていて堅苦しくなく自然と楽しみながら問題意識を抱かせていく見事な演出でした。
先に述べたように出演者の方々皆さん魅力的でしたが中でもヒロイン夏海を演じる長澤樹さんが素晴らしく、コーダという難しい役柄でありながら手話も含めてごく自然に演じられていました。
その夏美とクルド人一家で日本生まれのヒワとの交流も瑞々しく描かれていて、終盤の2人にまつわる展開では思わず胸が熱くなり感動してしまいました。
東京では2館でしか上映していないようですが、
今だからこそ観るべき作品だと思いますし単純に楽しい映画が観たいという方にも強くおすすめしたいです。
2回目を観て追記(2025/12/26) 豊穣なポリフォニー
駿が書いたノートを広げて「はつみ」がヒワに言う。
「ほら、駿だけじゃなくて! みんな、おしゃべり!(笑)。」
クラスの友だちが駿の言語に触発されてノートに書き込んでいた創造された言葉の数々。
あっ と思った。それはポリフォニー(多声)だ。
不協和音のノイズではなく、ユニゾンでもない。
さまざまな「声」がてんでに発せられ、歌われながら、ぶつかり合い、入れ替わって前面に出たり、主張し合い、対話し合う状態。しかし、一つの「正しさ」に収斂しない。
永遠に続くジャズのインプロヴィゼーションのようだ。
考えてみれば、この映画のプロットそのものがポリフォニックである。
日本語、手話という言語、クルド語、トルコ語、アラビア語、中国語、宇宙?語。
ろう者、聴者、クルド人、失語気味な老人。
父親、娘、息子、きょうだい、友だち、教師、客、仕事で決めつけたがる人。
---------------------------------------------
ああ、やっぱり長澤樹はいいなぁ これからもっとブレイクして欲しい。
そして渡邊崇の劇伴も不思議で心地よい(SpotifyでOSTを聴きながら)。
(追記 了)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
初回投稿【記号論の彼方への旅】↓
随分前に予告編を観て、町内在住のクルド人と障がい者(ろう者)の揉め事ぉ?
いや何か、左寄りのイデオロギーとポリコレの匂いがプンプンするなぁ。…と思っていたので、予約する直前までまったく食指が動かず。
しかし夕方から観る映画とのスケジュール上の兼ね合いで「その前にとりあえず1本観ておくか」程度の「期待感ゼロ」でユーロスペースに入った。
当たり、だった。
期待度とのギャップという意味では、個人的には大当たりだった、と言っても過言ではない。
中盤から終盤にかけてちょっとかったるいプロットはあったものの、全体としては予想を遥かに超えてきた。
もちろん厳密に言えば、お約束のハッピーエンドはそれなりに予想ができる。コミカルな小ネタを含めて、このトーンで行きながら最後に悲惨な結末を迎えるとは到底思えないからだ。
(置きどころが難しい感想だけれど、小ネタの一つ。会議室でのろう者vsクルドのシーンで、クルド人側の内輪揉め?の「トルコ語で話すな」「アラビア語も入れろ」のくだりは極めてハイコンテクストなエスニックジョークの香りがして、そのへんがちょっと分かる私としては思い出すたびにじわじわ笑いが込み上げてくる)
---------------------------------------------
この作品の何が良いのか、観ているあいだずっと、自分の感覚をまさぐるように、感情の輪郭を薄目で眺め透かすかのように、確かめていた。
ただの社会派?コメディじゃない。
脚本と演出と役者たちが何度も塗り重ねていったのは、単にクルド人とか障がい者とか排除と和解とかいう、表象の問題ではない。
むしろ、それらの言葉を聞いた途端に紋切り型の認知を立ち上げて脊髄反射することがいかにバカバカしいか、を際立たせている。それを狙っている。
その象徴が、商工会から「地元の事業で頑張っているマイノリティの方々にスポットライトを当てるプロジェクト」の広報を委託されて取材してくるディレクターの沖田だ。空々しいマジョリティ発想の言葉の、なんとイタいことよ。
そこに、ある種の被害妄想にどっぷり浸かっているろう者の電器店店主の古賀(演: 毛塚和義)と、たぶん普段からいろいろと差別に遭っているであろう誇り高きクルド人、ルファト(演: ムラト・チチェク)の、些細な誤解をきっかけにしたいがみ合いと分断が絡む。
この「クルド人」のキーワードは、最近それだけでキーキー吠える勢力の呼び笛になってしまいそうだが、朝鮮人でも中国人でもムスリムでもなくクルド人を持って来た制作陣のきわきわのセンスと覚悟にヒリヒリし、舌を巻いた。
---------------------------------------------
そして、役者。
何より古賀の浪人中の娘、夏海(演: 長澤樹)と、ルファトの息子ヒワ(演: ユードゥルム・フラット)が良い。
夏海は聴者CODAとして手話に堪能なので、ろう者の父や弟の、そしてヒワは日本で生まれ育ったので日本語はペラペラなので、喋れない父ルファトやその仲間の、それぞれ通訳をする。
しかしつまりは、いざこざに関わるネガティブなやり取りを「させられる」。
ともに頑なな大人たちの身勝手ないがみ合いの盾にされ、罵りの言葉を律儀に「もう一度言ってみろバカ野郎」などと訳している二人のやり取りは声を上げて笑ってしまった。
が、二人はその挙げ句、どうでもよくなって上の空。いがみ合うグループのあいだで文字通り上を見上げて明日の天気のことを考え、気をそらしている姿が何とも笑える。
---------------------------------------------
お断りしておくが、外国人であれ障がい者であれLGBTQ+であれ、私はマイノリティの置かれた社会的不正義を無視したり否定するつもりは毛頭ない。それどころか怒りを同じくするものだ。
しかし劇中でも出てくるような、相手の立場や事情を顧みず、対話を「譲歩」としか捉えず、勝敗でしか物事を見られない発想には辟易としている。
この映画は、マイノリティの不遇な立場に淫しない冷めた視点とバランス感覚がとても新鮮なのだ。
どんなマイノリティの人びとだって「ただの一人の人間」である以上、聖人では決してあり得ない。
弱さも狡さも後ろめたさも間違えることも言い訳も、あるのがむしろ当たり前だ。
それがいつからか「無謬であること」が暗黙の了解になってしまっていなかったか?
だからこそ、古賀がルファトの店の電源故障を職人魂で直してやり、その帰り道に手話で「以前、売物の電球をあんたが割ったと誤解して済まなかった。ごめんなさい」と謝り、ルファトもクルド語で「こちらこそ済まなかった」と応じるシーンは、この時いっさい字幕が出ないけれど、ものすごく尊い。
そして、この時にあえて「字幕を出さない」という天才的な演出が為されている。
それは、作品を視聴する鑑賞者たちに対して「手話もクルド語もわからなくてもいい。懸命な気持ちを読み取って推測してください」と仕掛けているのだ。
そして最後の、究極の「コミュニケーション出来なさそう」な存在の登場に腹を抱えて笑いつつ、その重層的な「わかり合えなさそう」の掛け算の連打には唸ってしまった。加えて、古賀父さんの「話せばわかる」には、もう腹筋が痛かった。
---------------------------------------------
さて、この物語はこれだけでも充分楽しめるコメディなのだが、驚くべきことに、もう一段深い階層があるように思える。
それは古賀家のろう者の小学生、夏海の弟であるシュン(俊?駿?)くんが「発明」した言語のエピソードである。
実はこれは、なくても映画のストーリーとして成り立つ。
場合によってはこのエピソードがあることで却って混乱したり、一種の雑味として不要では?と感じる鑑賞者もいらっしゃるかもしれない。
しかし私は驚嘆した。
なぜなら、これは人間が言語を獲得し、文字を発明した時の始祖の再現とも言えるからで、ストーリーの前景にある「わかり合えなさ」の奥にある本質的な領域を語っているからだ。
記号論や社会構成主義では、極論すれば犬という存在を見たから「犬」という言葉を作ったのではない。「犬」という言葉を心で獲得したから犬が実存する。
世界は言葉でできている。そして、あなたはあなたが使う言葉でできている。
では、シュンくんは何を心に得たのだろうか?
あのアラビア語めいた文字に表された数々の概念は、シュンくんの生々しい心の動きそのものである。
それはやがて、友だちにも通じ合え、カードで会話することができるようになった。
ろう学校の山際先生(演: 小野花梨)にはわからなかった。しかしヒワはそれを敏感に察知し、一つ一つの意味や言わんとすることをシュンくんに確かめていく。
スマホさえあれば今や世界のどんな言語も瞬時に翻訳してくれる。人類はついにバベルの塔の呪いを克服したかのように見える。
でも、人間はずっと永いあいだヒワのように、手探りするように、一つ一つ粘り強く確かめながら通じ合おうとしてきたはずだ。
たぶん異言語のコミュニケーションという点では、これからもテクノロジーが飛躍的に意思を通じやすくしていくだろう。
しかし、例えば私たちは同じ日本語を使う者同士であったとしても、本当にわかりあえているだろうか?
言葉の意味として分かったとしても、それは相手の感情や事情や経緯や依って立つ価値観を理解しているだろうか?
この映画で障がいや言語の違いは、一見「壁」として見える。
しかしそれらがすべて取り払われた時に、壁はまったくなくなっているだろうか?
こんなに深いことをコメディという箱に乗っけて届けてきたなんて、日本映画もすごいことをするようになったものだ。
全30件中、1~20件目を表示















