劇場公開日 2017年2月18日

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「秀逸でリアル」雨の日は会えない、晴れた日は君を想う R41さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 秀逸でリアル

2026年7月9日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

# **壊したかったのは、妻との思い出ではなかった。**

映画には、「壊す」ことでしか前へ進めない人がいる。

『雨の日は会えない、晴れの日は君を想う』の主人公デイビスは、その典型だ。

妻を交通事故で失った彼は、悲しまない。

涙も出ない。

周囲から見れば冷たい人間なのかもしれない。しかし彼自身もまた、「なぜ悲しくないのか」がわからない。

だから彼は、冷蔵庫を分解する。

家を壊す。

機械を解体する。

最初は破壊衝動の映画なのだと思った。

しかし見終えたあとに残ったのは、まったく違う感覚だった。

彼が壊したかったのは、物ではない。

「自分はこういう人間だ」という物語だったのではないか。

私たちは、肩書きや役割を自分自身だと思って生きている。

夫。

会社員。

親。

友人。

それらを積み重ねながら、「これが自分だ」と信じている。

しかし、その土台が突然失われたとき、人は初めて気づく。

本当の自分など、案外知らないのだと。

デイビスは悲しみを探していたのではない。

自分を探していた。

だから機械を分解する。

完成したものを壊したかったのではない。

中がどうなっているのかを知りたかったのだ。

それは機械だけではない。

人間も同じだった。

感情とは何なのか。

愛とは何なのか。

自分とは何なのか。

その構造を知りたかった。

だから最後には、自分自身を解体し始める。

映画の終盤、妻の不倫や妊娠、堕胎という事実が明らかになる。

普通なら怒りが生まれる場面だろう。

しかし、この映画は誰も裁かない。

そこには「赦し」があるのではない。

あるのは「受容」だ。

赦しには裁きがある。

一度相手を悪と定め、その上で許すという行為だからだ。

しかし受容には裁きがない。

「そうだったのか。」

ただ、その事実を引き受けるだけである。

デイビスは最後まで妻を理解できなかった。

むしろ、自分は何も知らなかったことを知る。

その事実を受け入れたとき、皮肉にも初めて妻を一人の人間として見ることができる。

そこではもう、不倫相手も敵ではない。

妻も加害者ではない。

誰もが、それぞれの孤独を抱えた一人の人間として存在している。

そして私は、この作品の邦題を思い出す。

「雨の日は会えない、晴れの日は君を想う」

作中では、サンバイザーに挟まれた妻のメモとして登場するこの言葉は、おそらく不倫相手への恋文なのだろう。

しかし映画は、その言葉の意味さえ解体してしまう。

最初は妻の言葉だったものが、最後にはデイビス自身の言葉へと変わっていく。

雨の日とは、心が閉ざされ、誰かを想う余裕さえ失っている時間。

晴れの日とは、すべてを壊し、自分の嘘や幻想を見つめたあと、ようやく他者を想えるようになった時間。

同じ言葉なのに、意味だけが静かに反転している。

原題は『Demolition』。

解体。

この映画が解体したのは家でも機械でもない。

「人は他者を理解している」という思い込みであり、「自分は自分を知っている」という幻想だった。

ラストでデイビスは走る。

何かを取り戻したからではない。

答えを見つけたからでもない。

ただ、自分の知らなさを受け入れた人間だけが持つ静かな足取りで、前へ進み始める。

その姿は、「再生」という言葉よりもずっと誠実だった。

R41