「秀逸でリアル」雨の日は会えない、晴れた日は君を想う R41さんの映画レビュー(感想・評価)
秀逸でリアル
# **壊したかったのは、妻との思い出ではなかった。**
映画には、「壊す」ことでしか前へ進めない人がいる。
『雨の日は会えない、晴れの日は君を想う』の主人公デイビスは、その典型だ。
妻を交通事故で失った彼は、悲しまない。
涙も出ない。
周囲から見れば冷たい人間なのかもしれない。しかし彼自身もまた、「なぜ悲しくないのか」がわからない。
だから彼は、冷蔵庫を分解する。
家を壊す。
機械を解体する。
最初は破壊衝動の映画なのだと思った。
しかし見終えたあとに残ったのは、まったく違う感覚だった。
彼が壊したかったのは、物ではない。
「自分はこういう人間だ」という物語だったのではないか。
私たちは、肩書きや役割を自分自身だと思って生きている。
夫。
会社員。
親。
友人。
それらを積み重ねながら、「これが自分だ」と信じている。
しかし、その土台が突然失われたとき、人は初めて気づく。
本当の自分など、案外知らないのだと。
デイビスは悲しみを探していたのではない。
自分を探していた。
だから機械を分解する。
完成したものを壊したかったのではない。
中がどうなっているのかを知りたかったのだ。
それは機械だけではない。
人間も同じだった。
感情とは何なのか。
愛とは何なのか。
自分とは何なのか。
その構造を知りたかった。
だから最後には、自分自身を解体し始める。
映画の終盤、妻の不倫や妊娠、堕胎という事実が明らかになる。
普通なら怒りが生まれる場面だろう。
しかし、この映画は誰も裁かない。
そこには「赦し」があるのではない。
あるのは「受容」だ。
赦しには裁きがある。
一度相手を悪と定め、その上で許すという行為だからだ。
しかし受容には裁きがない。
「そうだったのか。」
ただ、その事実を引き受けるだけである。
デイビスは最後まで妻を理解できなかった。
むしろ、自分は何も知らなかったことを知る。
その事実を受け入れたとき、皮肉にも初めて妻を一人の人間として見ることができる。
そこではもう、不倫相手も敵ではない。
妻も加害者ではない。
誰もが、それぞれの孤独を抱えた一人の人間として存在している。
そして私は、この作品の邦題を思い出す。
「雨の日は会えない、晴れの日は君を想う」
作中では、サンバイザーに挟まれた妻のメモとして登場するこの言葉は、おそらく不倫相手への恋文なのだろう。
しかし映画は、その言葉の意味さえ解体してしまう。
最初は妻の言葉だったものが、最後にはデイビス自身の言葉へと変わっていく。
雨の日とは、心が閉ざされ、誰かを想う余裕さえ失っている時間。
晴れの日とは、すべてを壊し、自分の嘘や幻想を見つめたあと、ようやく他者を想えるようになった時間。
同じ言葉なのに、意味だけが静かに反転している。
原題は『Demolition』。
解体。
この映画が解体したのは家でも機械でもない。
「人は他者を理解している」という思い込みであり、「自分は自分を知っている」という幻想だった。
ラストでデイビスは走る。
何かを取り戻したからではない。
答えを見つけたからでもない。
ただ、自分の知らなさを受け入れた人間だけが持つ静かな足取りで、前へ進み始める。
その姿は、「再生」という言葉よりもずっと誠実だった。
