「「英雄」から降りた王」オデュッセイア 悠さんの映画レビュー(感想・評価)
「英雄」から降りた王
久しぶりに見ごたえのある素晴らしい作品でした。
大画面で映画を観る醍醐味を味わえたような気がします。
しかし、この作品は単なる「史劇活劇」ではなく、また「神罰を受けた英雄の帰還」を描いているだけではないんですよね。
私が始終気になっていたのが「ゼウスの掟」で、それが単なる世界観設定ではなく、ゼウスの掟=客人をもてなし、客人も主人を敬う、という「歓待のルール」が、映画の中では単なる古代ギリシャの風習ではなく、「人間は、相手を人間として扱えるのか?」ということを問う装置になっていたところです。
トロイアではオデュッセウス側が「侵入する者」でした。
そしてイタケに帰ってくると、今度は求婚者たちが宮殿に居座り、ペネロペの家を食い潰し、王位まで奪おうとしている。
つまり、自分たちがやったことを、今度は自分たちがされている、と言う反転が起こっているんですよね。
しかも面白いのは、オデュッセウスが「求婚者たちと違って立派な人間です」という単純な構図になっていないことです。
彼もまたトロイアで、客人としてではなく侵略者として振る舞いました。
だから最後に求婚者たちを殺して「悪を倒しました、めでたしめでたし」では終われないんです。
オデュッセウス自身がトロイアで掟を破った側であり、イタケに戻れば今度は求婚者たちがその掟を破っている側になるという、加害と被害の立場が反転しながらも、人間は同じ過ちの構造から抜け出せない、という円環的な作りになっているように見えました。
その中で、「ゼウスの掟」は「同じ過ちを繰り返す」というテーマそのものを測る物差しとして機能していたように思えました。
そもそも、映画を観ながら、オデュッセウス王が、故郷に帰りたくても、道々に困難が待ち受けていて、なんでこんな苦境に陥ってるのかな?
なぜ彼はあれこれ「煩悶」しているのか?と最初は分かりませんでした。
「勝った」んだから、意気揚々と帰ればいいじゃない、と。
しかし、物語が進むにつれて次第に分かってくるんですよね。
困難はアテネの女神を冒涜し、神の怒りに触れてしまったことから与えられた神罰。
そしてもうひとつ気になっていた「煩悶」。
普通の「英雄譚」なら、
「木馬作戦、大成功!俺たちの知略の勝利だ!」
となるはずなんですよ。
でも、オデュッセウス自身は、どうもその「英雄的勝利」に酔えていない。
作戦を成功に導いたそもそもの侵入の仕方(木馬に隠れる)からして慙愧の念に堪えない様子なんです。
「俺たちは本当にこれでよかったのか?」
というものを抱えたまま帰路につく。
「木馬作戦」で敵方に侵入したはいいけど、一般人までも多数虐殺するところを呆然と眺めながら、その戦いの虚しさを噛みしめてしまう。
そして、アテナの像の前で女性(後に彼の妄想の中でアテナ神としてでてきますが)が殺されるのを見過ごしたことが、さらに彼に重くのしかかっていたように思えます。
その悔恨と罪悪感が彼自身の帰郷にブレーキをかけていたのでしょう。
英雄として帰ったらまた同じことを繰り返す。しかし、そのしっぺ返し(自分の国や家族を失う)を喰らうかもしれないという思いが彼の中にあったのかな?と思いました。
だから帰れないことが、単純な「神様に罰を与えられました」だけではなくなるんですよね。
神罰という外側の物語と、罪悪感や喪失という内側の物語がここでは重なっていたように思えるんです。
もっとも、彼自身は「反省」「悔恨」などの思いはあったようで、その報いを受けるのは致し方なし、と覚悟を決めていたようでした。
反面、仲間も無事に帰郷させたいと言う思いもあり、その狭間で苦しみますよね。
まあ、その仲間もたいがい自分勝手で報いを受けるのもしょうがないんじゃ?とも思いましたがね。
オデュッセウスに反乱して魔女に豚にされたり、神の島の牛を殺してしまったりしていました。
それでいざ嵐に合うと「オデュッセウス!神に祈ってくれ!」て懇願するし⋯
いや、だから牛食うな、て言われてただろ!て思いましたが⋯
それでもオデュッセウスは部下のことを見捨てません(私なら自業自得!と見捨てます🤣)。
ここは「王」としての「責任」もあるでしょうし、同時に「仲間を死なせたくない」という思いもある。
しかし、次々と仲間を失くしていき、それが単なる帰途の「犠牲者」ではなく、オデュッセウス自身が「背負う」ものとなっていき、最終的には1人になる。
せっかく「英雄」として勝利したはずなのに、帰り着いた時には、ほとんど何も残っていない、というのはかなり皮肉でしたね。
しかし、やっと帰り着いても、彼は自分の身分を「物乞い」姿で隠します。
とはいえ、次第に「物乞い」だと舐めてた男が、弓矢の達人(20年経ってもその腕は錆びついていない!凄い!)だったり、バッタバッタと周りの「輩」どもを倒していくところはなかなかの爽快感がありました。
でも、この展開が単なる爽快な「正体バレ」になっていないところがまたいいですよね。
これは、正体を隠すことで国がどういう状況になっているのか見極めたかったのでしょう。
王として帰ってきたら、みんなが
オデュッセウス王!ハハァ〜!
とひれ伏し当然「王様」に対する振る舞いをする。
下手すれば、また(?)連日祝いの「宴」が開かれ、ただでさえ財政が厳しいのに、さらに食い潰すことになる。
いや、この段階ではまだ「財政」のことまでは把握してなかったか⋯。
とにかく、「物乞い」姿なら民たちの「本音」も探ることができる。
だから「物乞い」という格好は変装というより、ある意味で王という立場から一度降りるための「手段」だったんではないでしょうか。
そして、それがラストの「王位から離れる」という選択にもつながってくるんだと思います。
この「流れ」はかなり綺麗でしたね。
その選択も、オデュッセウスが「逃げた」というのは語弊がありますが、あれは撤退ではなく、暴力の連鎖の「外」に出る選択だったんでしょうね。
普通の英雄譚なら、
「敵を倒した!王国を取り戻した!妻と息子とも再会した!めでたしめでたし!」
で終わるところです。観ている側もハッピー。
ところがこの映画は、
「で、王になったら?」と問い返してくる。
王である限り、権力争いが起こる。
誰かが王位を狙う。
それを暴力で排除する。
そしてまた誰かが現れる
というふうに、王位という座に留まる限り、彼は永遠に「掟を守る/破る」というサイクルの当事者であり続けてしまう。求婚者たちを討った後も、次はまた別の誰かとの間で同じ緊張関係が生まれかねない立場です。
だったら、
そのゲーム自体から降りる。
円環の外にでる。
これがつまり、ラストシーンのオデュッセウスが漏らした言葉、「人は忘れる」
「同じ過ちを繰り返す」
というのとつながるのではないかと思います。
つまり、自分はその「延々と繰り返される」であろう構造から降りる、という決断にも見えるんですよね。
単純な「妻と息子に再会できてよかったね」という「感動的」なシーンでは終わらない。
これは辛辣です。
でも、ここはまた、前半でペネロペが願ったこと(おそらく、栄光や王位より、ただ夫として共にいてほしいという願い)を、艱難辛苦の果てにようやく叶えてやれた、というのも、それが単なる「妻孝行」の帳尻合わせではなく、彼自身が"英雄"という役割から降りることを選んだ、という意味で二人の願いが一致した瞬間なんでしょうね。
ここは「ハッピーエンド」を置いたのではなく、英雄譚の型そのものを内側から手放させるという終わり方にしたのだと私は思います。
となると、彼の後を継いで「王」になった「息子」にまた自分と同じ「艱難辛苦を負わせるんかい!」て言いたくなるところです。
しかし、私はテレマコスの場合、父親とまったく同じ道を歩むことにはならないと思うんです。
オデュッセウスは「戦争→英雄→勝利→帰還→復讐」という人生を歩みました。
一方、テレマコスはその父親を20年待ち続けた側でもあります。
つまり彼は、父親が何をして、何を失って、最後に何を選んだのかを目の前で見ているんですよね。
だから父から受け取ったのは単純な「王位」だけではなく「王であることが、必ずしも英雄であることを意味しない」
という経験そのものなのかもしれないと思いました。
これは父親が息子に渡せる、かなり特殊な「教育」ですよね。
オデュッセウスにしてみたら、側にいてあれこれ教えるよりも、「自分の人生を息子に理解してもらうには、息子自身が王として生きるしかない」と思っていたのではないかな?
そんな気がします。
自分が経験したものを言葉で説明するのではなく、
「いつかお前にも分かる」
という形で渡してしまうという、ある意味の「成人育児放棄」ですが、自分が背負ってきたものを、お前なら違うやり方で背負えるだろう、という期待なのかもしれませんね。
でも、「お父さん、俺は20年間待ったんですけど、積もる話もアドバイスもなく、俺がいきなり王様ですか?」とテレマコスが思っていた可能性もゼロではない🤣
しかし、ラスト近くの一瞬映ったテレマコスの表情を見ると、「父の姿を見て兜の緒を締めた」という覚悟がみなぎっているようにも見えました。
父親は「偉大な英雄」だったわけですが、実際に再会してみたら、その英雄は無傷のスーパーヒーローではありませんでした。
勝利の裏側に、殺した人々、失った仲間、神々の怒り、罪悪感、後悔を全部抱えて帰ってきた男だった。
だから、「父さんみたいになりたい!」
だけではなく、「父さんみたいな生き方をしたら、こういうものまで背負うことになるんだ」ということも見えてしまったのではないでしょうか。
それは王になる息子にとって、ものすごく大きな教材でしたよね。
こういうところがまたノーランらしいというか⋯
「父と息子が20年ぶりに再会しました!」
という、ものすごく感動的になるはずの場面を、
「父が息子に王位を渡しました。終わり!」
くらいの温度で処理してしまうところが、また⋯。
普通なら、ここで親子の抱擁とか、涙ながらの会話とか、20年間の空白を埋める場面を入れそうなものなのに、この映画ではむしろ「語らなかった20年」そのものが二人の関係を作っているように見えました。
だから、「もっと語らおうぜ、親父!」
というテレマコスの気持ちを想像すると、ちょっと切ないんですよね。
そして同時に、「いや、語っても語り切れないんだろうな、この20年は」
とも思うんです。
だからオデュッセウスは、言葉の代わりに王位という、とんでもなく大きくて厄介なバトンを「あとはよろしく!」て渡した。
いやまあ、そんな軽いノリではなかったと思いますが、バトンにしては重すぎますよね。
でも、その重さを背負ってこそ、テレマコスは「オデュッセウスの息子」から、自分自身の王になっていく。
そう考えると、あのラストはオデュッセウスの物語の終わりであると同時に、テレマコスの物語の始まりでもあるんでしょうね。
しかし、トム君。
スパイダーマンに続き「重いもの」を背負わされてますね😅。
でも、それで俳優としての力量をしっかり示しているのは、なんだかファンとして嬉しい限りです。
