「トイストーリーは"誰のための何"なのか」トイ・ストーリー5 dmiさんの映画レビュー(感想・評価)
トイストーリーは"誰のための何"なのか
これがきっと最後だろう。
長く紡がれてきたシリーズのサブテキスト的要素と、ピクサーという創り手たちの体温を、客観的な事実を杖に辿りながら、最後に感想をしたためてみる。
まず、ピクサー創成期から在籍するベテラン映画人たちは、自らの人生、とりわけ「親子の絆」を、そのまま映画にプロットすることが多い。初期から十年ほど前まではとりわけ顕著だった。かつてオタクだった天才たちが、ある日突然大人になり、伴侶を得て、我が子を授かる。その衝撃を消化しきれずに、作品という器へ流し込みたくなるのだろう。
彼らはとにかく、「自分が生きた人生を、キャラクターたちにもう一度生き直させる」ことを好む。まるで、自分の魂の一部を、絵の具のように登場人物へ塗り重ねていくように。
トイストーリーの根幹となる脚本を書き続けてきたのは、アンドリュー・スタントンだ。彼は「親子の関係」を、まるで一つの信仰のように描き続けてきた。
「ファインディング・ニモ」もまたスタントンの筆によるものだ。初期作品だからこそ、重い意味を持つ。
子供に対して過保護だった彼は、ある日幼い息子と公園を歩いていた。遊具で遊ぶ息子の手を離せずに、注意ばかりを重ねる自分に気づいたとき、何かがふっと崩れ落ちたと語っている。「もっと大らかに、子供を受け止める存在でありたい」、その悔恨が、ニモという物語を書くきっかけになった。堅物な父親「マーリン」が、理想の父親像「クラッシュ」に出会い、その裏側で父親自身が成長していく。あれは父親の物語なのだ。結局、ニモという作品にも、スタントン自身をプロットしている。英語版でクラッシュの声を自ら担うあたり、その執着は隠しようもない。
話を戻す。それほど「親と子」へ執着するスタントンは、トイストーリーシリーズに、自身の魂をまるごと注ぎ込んできた。
▼トイストーリー1
→幼きアンディの成長を、ウッディたちが見守る。「親が子を見守る」という原型的な構図に、スタントンはウッディという器を通して自身を重ねている。
▼トイストーリー2
→おもちゃたちの世界軸としての闇に触れながら、サブテキストとしては「親、あるいは子のエゴによる家庭の崩壊」を描き出す。それでも最後には初心に立ち返り、子供や家族と向き合い直すことの尊さを描いてみせた。ここにもまた、スタントン自身の影が落ちている。
▼トイストーリー3
→スタントン以外の書き手達も脚本に加わっており、その多くは既に、子供の大学進学という名の「子離れ」を経験済。ウッディ(=スタントン含む脚本家)とアンディ(=彼らの子供)に、彼等の人生を映し込みながらも、見事な形で二人を別れさせる。それによって、シリーズにひとまず終止符を打とうとした。
因みに過去のスタントンのインタビューから、彼の息子は1992年生まれと推測できる。3が公開された2010年、息子は18歳前後で、ちょうど大学の門をくぐる年齢だ。つまりスタントンは、映画の公開と同時か、それより少し遅れて現実の「子離れ」を経験する。
そう考えると3は、既に子離れを終えたプロデューサーたちと、これから子供の巣立ちに直面するスタントンとが、互いに異なる時間軸を抱えたまま織り上げた物語だったとも言える。
では3公開後、実際に子離れを経験したスタントンはどうだったのか。
▼トイストーリー4
→やはり我が子への愛が骨の髄まで染み込んだスタントンだった。実のところ4は、3の脚本が完成した直後から、水面下で静かに書き始められていた。だが内容的に脚本の書き直しが重なり、ラセター問題にも巻き込まれ、計画は遅延。約10年の歳月を経て、幹部からゴーサインが下りた。
3公開時、スタントンは自分がとうに子離れを果たしたと思い込んでいた。だが実際には、何一つ手放せていなかった。子供が日常の風景から静かに消えた時、彼は自分がどう生きていけばいいのか、分からなくなってしまった。無理もない。週末を子供と過ごしてきた人間が、ある日突然一人取り残されたら、その先の人生をどう満たせばいいのか、見当もつかないだろう。何のために生きているのかさえ、揺らいでしまう。
だから4の中で、フォーキーは繰り返し問いを投げかける。「君は(子育ての)役目を終えたゴミなの?」「君は、何のために生きているの?」と。ウッディもまた、自分が何者なのか分からなくなっていく。それでも最後にウッディは、ボニーのもとを離れ恋人と共に新しい人生を歩むという、紛れもなく「本当の子離れ」を意味する選択をする。ここでもスタントンはウッディに自らを重ね、子供以外の場所に人生の答えを見出したのだろう。
おそらく経営陣が10年越しにゴーサインを出したのも、社内の混乱だけが理由ではなく、彼ら自身もまた親として歳を重ね、スタントンの苦悩をどこかで理解したからなのではないかと、今ではそう思う。
▼トイストーリー5
→脈々と続く高度なサブテキストの最延長点、それが本作だ。
4公開時、スタントンの息子のフェイスブックを漁ったことがある。当時27歳、結婚して子を持っていても不思議ではない年齢だった。以来ずっと、「スタントンにはもう孫がいるのではないか」という予感を心のどこかに置いていた。彼の現実の生が動くとき、トイストーリーもまた続きを求めて動き出すのではないか、と。
蓋を開けてみれば、流石はピクサーだった。私が予想したような予定調和の凡庸な着地(アンディに子供がいる)ではなかった。「旧エミリー宅に暮らす子供」や「ジェシーの名を受け継ぐエミリーの子供」という形で、(ジェシーの子であるエミリーを2世代目とすると)孫という名の3世代目は静かに象徴され、あくまで「受け継がれるもの」の提示に留めている。
本作はもっと、「親・子・孫」のメタファーからは離れ、トイストーリーというレンズを通してしか見えてこない、もっと人間の根源的でア・プリオリな感情に焦点を当てている。それは「人は、同類の魂が傍にいる事を願いながら生きている」ということだ。その願いが強い程、その魂も不変となる。
エミリーは、「ジェシー」という幼き日の純粋な自分の象徴を、名として娘に受け継がせた。ボニーは魂の注ぎ先であるおもちゃや、近しい魂のブレイズと触れ合うことで安堵する。二人に共通するのは、おもちゃに幾分か自分自身を反映させていることだ。おもちゃは二人にとって、魂の影分身にほかならない。
やがては本人にとって概念的な存在となるが、それは自分と違って色褪せない。常に「そこに、そのまま」静かに自分を待っていてくれる、「being」な存在に昇華するからこそ、忙殺的な日々を過ごす大人になってから、自分を支える軸となりうる。おもちゃという概念を通し、あの頃大切だと思っていたことを学び直し、魂の復習をする。
あの頃の魂の不滅を願って、エミリーは娘にそれを象徴する名をつけたのではないか。
作者が作品に対してそうしたように、子供もおもちゃという器に自分の魂を塗りたくる。一度持ち主の魂を注がれた存在の、その不変性に気づいたとき、ジェシーは初めて「私たちは、必要な時に存在すればいい」ということを理解する。物理的な永続ではなく、精神世界における永続を悟る。その永続性は人間の、「同類の魂を求め続ける力学」の流れに支えられ、言わばジェシーは人間というものを理解し直したのである。これはおもちゃ側からの視点でしか辿り着けなかったであろう。
苦しいのは、彼女がこの真理に辿り着くまでの間に、一度は自らの存在意義を見失い、自〇がよぎる瞬間があることだ。木から吊り下がるタイヤの、その中心に彼女の顔が収まる演出が、それを静かに物語る。真の理解には苦しみがつきまとうという点もまた、あまりに人間的だ。
テックとアナログの対立という題材も、この主題を裏側から照らし出す。リリーがボニー以外の子供たちを「冷たい」ではなく「普通」と呼んだように、ボニーのように「魂に従順である者」は、いまや現代のマイノリティだ。世の中は冷えていく一方、人間にはおもちゃのような魂の入力器が必要だ。その時において自分を癒すためのユートピアともなりうるし、やがて「あの頃の魂の出力器」にもなる。だが時代はその入力器さえ奪い、人を画面の中に囲い込もうとしている。TVゲームだとしても「オチが決まっていて」存在をパッケージとして認識しやすい分、いくらか魂の入力器となりうるかもしれない。が、リリーパッドの場合無限に使い道が存在し、記憶と存在が1対1で紐づかなくなり、得体の知れない冷たい文明物という印象が強くなるため、入力器とはなり得ないのかもしれない。
総じて本作は、おもちゃ達の選択よりも、上述したような人間側の選択・行いの理由の部分が漠然と浮かび上がっていて、見る者自身に気付きを促すような内容であったと思う。原点に帰り、「結局、時が流れても変わらないものって、自分自身の部分だよね」と。
持ち主にとってのおもちゃがそうであったように、観客にとってはトイストーリーそれ自体が自分の写し鏡だ。シリーズに関連する思想をずっと近くに置いておきたいと思うなら、それはあなたが生涯手放したくないと願う「変わらないもの」の一部であり、あなたの魂との共鳴部分なのだろう。だから、アンディやエミリーが大人になっても魂の投影としての「おもちゃ」を大切に扱ったように、視聴者はトイストーリーそのものを大切にしようとする。1~4で感じた各々の諸感情や原点を、守ろうと抗う(だからウッディが変な選択をしたと感じると、レビューが荒れるのだ笑)。そのフラクタル的な関係の妙を、本作からは強調して感じられた。そうした「身近にいる同類魂」こそが、社会に身を置いてもよいという信頼の担保となり、それを失えば人は虚無に落ちる。人間は、自分と呼応する魂を常に求め続ける。
これを見ると昨今のニセモノ崇拝に警鐘を鳴らしたくなる。資本主義の奴隷となり、映画界ならば需要予測がしやすい過度な実写化・マーケティング然り、本物の追求は儲からない。若者は魂の共鳴度ではなく、広告や評判だけで行動を操作される。
良い映画は、作り手の原体験に対する思いが強い。だから自分で脚本を書いたり、既存の小説と共鳴して、映画作りをする。空想の内容であっても、そこに流れる思想や価値観は、本物の人間が体験し、伝え残したいと思ったものだ。
だから、如何にユートピア的な具象性に富んでいたとしても、フィクションは「本物の感情から」湧き出た例え話と捉えるべきだ。ドーパミンを分泌するための娯楽映画だけではない。背景の本物の体験談を想像しながら、どのような思想観が通底しているか、自分と共鳴する部分はどこかを観察して初めて、作品の世界に心酔できる。深く理解するからこそ脳内に固定でき、崇高な思想は自分のものにできるのだ。「ウッディならこうするよな」と。
AIやコンサル、デカルト的な客観理詰めが優遇され過ぎている現代において、もはや理詰めの部分はAIに任せ、人間としての本物の感情に向き合うべき時代がきたと思う。
トイストーリーとは、作者の記憶の追体験でもあり、視聴者が忘却した本物の感情誘発剤でもあるのだと思う。全人類が共通して必ず持っている、「魂のあたたかな固有値」をスクリーンに写し出す装置なのだ。壮大だが、これは「秀逸な映画とは何なのか」に対する明快な回答でもある。地球を代表するこのシリーズに対して、もはや抽象度を上げそう答えるべきだ。
そうして誘発された感情には、人間としての理想的な道徳観が通底し「私・僕だってこうありたい」と、万人が思う理想像と共鳴するような感情にたどり着ける。だからやさしく、あたたかい。
トイストーリーを愛してやまない私にとっては、そう捉えていたからこそ本物の世界で救われる場面があった。
作り手でもない私ですら、それほど愛しているし、死ぬまで愛し続ける作品だと思う。
だいぶ多角的に書いてしまったが、スタントンよ、ピクサーよ、敬愛するウォルト・ディズニーに関わる全ての人達よ。本当に、本当にありがとう。トイストーリーファンが増えることを祈る。
共感ありがとうございます。
dmiさんのトイ・ストーリー愛に脱帽です。こちらも負けてませんが(笑)
レビューを拝見した中で、人は同類の魂が傍にいる事を願いながら生きている、という言葉に感銘を受けました。老いも若きも誰しもそうだと思います。
本作品と共に子育てをしてきました。それはとても幸せなことでした


