急に具合が悪くなるのレビュー・感想・評価
全414件中、1~20件目を表示
資本主義への内部からの抵抗―ユマニチュード、演劇、そして映画
僕は介護施設で働いていたことがある。いつも通りケアをしていた入居者が、その翌日、亡くなっていたことがあった。出勤してそれを知り、空になった部屋で僕は泣いた。先輩のケアワーカーは、いつも通り他の入居者の食事介助をしていた。入居者が亡くなっても、特段動揺せず、泣くこともないのが「プロ」なのか。
真理はマリー=ルーが戦っていると言った「構造」について、資本主義をキーに分析していく。絶えず「外部」を作り出し、そこから収奪(搾取)して「今、ここ」の快適さを保つシステムが資本主義なのだ、と。その外部とは、地方であり、グローバルサウスであり、貧困層だ。しかし、そうやって外部を喰い尽くした果てに、資本主義は自壊を迎える。自然環境も有限だ。
これを社会のレベルで見ると、資本主義は「入れ替え可能性」を増大させていくシステムだと言える。人は資本を増殖させるための入れ替え可能なパーツで、資本の自己増殖のための触媒だ。人が生きる「生活世界」が、システムに置き換えられる。入れ替え可能な人々が、入れ替え不能なシステムに奉仕する、との感覚が広がる。
ユマニチュードは、この入れ替え可能性への抵抗の身振りとして表れる。一対一の人間同士の、「今、ここ」の関係性。そして演劇も、「一回性」を持つ現象として、入れ替え可能性への抵抗を示すパフォーマンスだ、と描かれる。だから真理とマリー=ルーは、ソウルメイトと言うより同志、もしくは戦友なのだろう。
心地よい風を感じる、3時間16分
心地よい風が、全編通じて吹き抜けている。それが直後の印象で、帰り道、自然に顔がほころんだ。それから数日。思い返すほどに、なかなか不思議な映画だったなという思いも湧いている。フランス語、日本語、時折り英語、そして話し言葉に書き言葉、さらには演技を含めた身体表現。様々なツールを行き来しながら、伝え合うこと、分かり合おうとすることの面白みや味わい深さを、存分に描き出す。つくづく、至福の3時間16分だった。
介護施設を運営し、理想と現実のはさまで悩むマリー=ルー。心身疲れ果てたさなか、風のように駆ける智樹を偶然目撃し、たちまち心奪われる。(智樹は、まさに風そのもの。本作品を体現する、忘れ難い存在だ。)智樹に声を掛けたことが智樹の祖父と活動している演出家・真里と出会いへと繋がり、同じ名を持つ2人は、静かに強く惹かれていく。しかし、末期がんである真里に残された時間はわずか。ひたひたと忍び寄る別れのときを予感しながら、2人は飽きることなく言葉を重ね、相手と自身を見つめていく。
きちんと伝えたいからと母国語で言葉を紡ぎ、想いは伝わっただろうかと慮り、時と場を共有しながら距離を縮める。ありふれた世間話抜きで展開していくふたりの会話は、穏やかながらどこかスリリングだ。あれよあれよと引き込まれ、ふたりと同じく、時の流れを忘れそうになった。言葉を介して分かり合えるか否かより、こぼれ落ちるものをすくい取り、伝え、わずかでも分かろうとすること。そこに、人と関わることの面白さや本質がある、と改めて思った。
緻密なやり取りの中、それぞれが行き詰まりや緊張を感じるとき、ふっとつむじ風のようにやってきて、その場をかき乱す智樹。風は、吹き抜けるその瞬間だけでなく、去っていったあとの思い返しや、近付いてくる予感の中でも、軽やかで心地よい。後半は、智樹の黄色い服が視界の隅に入るだけで、心が浮き立ち、わくわくした。彼は、本作品の隠れた主役といってもいい。
また、存分に言葉を重ねたその先が、「布団とベッド」という身体のかたまりに至るところも心に残った。身体を他に委ね、風を感じる心地よさ。そして、鳥のふんをめぐる微笑ましいやりとりも忘れ難い。否応ないトラブルを笑い合い、ぬぐい合える人がいるのは、つくづく幸せなことだ。
観終わった後、世界が少しだけ優しくなる映画です。
満を持して、濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』を鑑賞しました。
上映時間を見た時は、正直少し慄きました。
196分。
『ドライブ・マイ・カー』や『国宝』の約3時間をさらに超えてくる、まさかの3時間16分😳
楽しみにしていたはずなのに、どこかで少し先延ばしにしていたのは、この長さに少し怯んでいたからかもしれません。
けれど、ここで上映時間に怯んでなどいられません。
何故なら濱口監督には、きっと緻密な計算と勝算があると思うからです。
作品の長さは、単なる長さではない。
むしろ、その映画が完璧なかたちで完成するために必要不可欠な時間なのだと思ったからです。
映画を観終わった後、その考えは確信に変わりました。
さらに驚いたのは、その大胆な時間の使い方です。
作品の核となる劇中劇。
長塚京三さんによるひとり芝居は、ほぼ30分という尺で、一度ならず二度までも登場します。
この映画の中で、非常に大きな時間を占めている場面です。
一体どれほどの勇気があれば、あの静寂や不協和音の長い時間を、これほど大胆に差し出すことができるのだろう。
そしてそのあまりに混沌とした空間を、これほどまでに緻密に破綻なく整えることができるのだろう。
静寂の時間さえ、秒単位で計算されているかのような緻密さを感じました。
静かだけれど、無駄な時間は1秒もない。
まるでその居心地の悪ささえも、演出なのだと言わんばかりに。
そこに唸らずにはいられません。
濱口監督は、
怯むどころか、挑んでいる。
静寂にも、不協和音にも、絶望の時にも、決して諦めていない。
すべてをあるがままに、静かに丸ごと受け止めて、人と人の対話に置き換え、優しい時間へと変えてしまう。
観終わった後、心の中でひとり拍手喝采しました。
もちろん、座りながらスタンディングオーベーションです👏
今年初の星5作品かもしれません。
とにかく私には、ど真ん中に刺さった作品🎬 「ドライブ・マイ・カー」も良かったですが、さらにこちらの方が好きかも🤫
こんな作品にまだ出会えることがあるから、やはり映画鑑賞はやめられません。
下手をしたら、短い映画2本分以上の満足感(満腹感)
そして、半端ではない余韻✨
コスパ最強!!
観ないのはもったいない。
哲学が好きな人。
人生について、少し深く考えたい人。
人と人が向き合う時間を、じっと見つめたい人。
そんな人には、ぜひ観てほしい作品です。
最後に、この作品と向き合うには、観る側にも少しだけ緻密な計算と準備が必要です。
ご飯どきなら、軽くお腹に入れておく。
お手洗いは必ず済ませておく。
前日はしっかり睡眠をとっておく。
この準備をしておくことで、きっと作品への没入感は何倍にも上がります。
今年いち推しの映画です🎬
観終わったあなたの世界は、少しだけ優しく見えるかもしれません。
ぜひ、映画館でご鑑賞ください。
二人の掛け替えのない出会いと併走を5年後、10年後も忘れないだろう
本作のことは10年後も忘れないだろう。序盤に描かれる様々な仕事上の障壁や困難は、全てこの「瞬間」に向けての布石だった。強くそう確信できるほど彼女たちの出会いは運命的で、奇跡的。重苦しい午後、颯爽と鳥が放たれるかのように色づく車窓の風景は今なお鮮烈に思い出せる。そこに続く青年との時間といい、長塚京三の息を呑むほど柔和な舞台表現といい、さらには仏語と日本語が心地よく入り混じり、互いの思考を緩やかに解き放つように世界の諸問題を見つめるダイアローグといい、このたった1日の出来事が価値観や生き方を180度変えていく様はまさに希望だ。理不尽で不寛容で分断された世界に暮らす誰しもにとって、これは掛け替えのない光となろう。介護施設という場所。その建物が持つ歴史。流れる時間。集う人々。全てに意味があって、個と個は共に命尽き果てるまで結束しあって不可能を超えていける。196分、あらゆる瞬間を抱きしめたくなる。
ホワイトボードのシーン
往復書簡の原作本がこういう形で劇映画として成立したのか、とまず驚いた。この往復書簡を映画にするなら、会話劇を主体とする濱口竜介監督が適任だというのは、納得。プロデューサーの松田広子さんがこの企画を濱口監督に持って行ったそうだが、プロデューサーとして慧眼だと思う。
原作のコアは持ちつつ、精神ケアのユマニチュードやイタリアのフランコ・バザーリア、さらに資本主義の仕組みについてまで射程を広げて語る作品となっている。
会話、偶然、自然と肉体など、濱口映画にこれまでも存在していたエッセンスも詰まっていて素晴らしい作品に仕上がっていた。
議論を呼んでいるホワイトボードのシーンだが、僕はあれもとても映画的なシーンだと思う。白い板にビジュアルが次々に生まれていく。それをカメラが収める。そこにセリフという音が立体感を与える。ビジュアルストーリーテリングの一つのあり方だ。「文字」もまたビジュアル表現なのだ。
死の恐怖すら超越する生命と友情の永遠
濱口竜介監督の最新作は、末期癌の転移を経験しながら生き抜く哲学者と、臨床現場の調査を重ねる人類学者が取り交わした20通にも及ぶ往復書簡からなる同名書籍を基にしていると言う。往復書簡というものに精通していないので、これを映画化する上で話の流れや時系列をどう組み立てたかが気になるが、映画を観ると、ところどころ唐突に感じる箇所があるものの、3時間16分という長さは気にならなかった。むしろ、時間が進むごとに惹きつけられていったというのが正直な感想だ。
物語は、介護施設で理想的な介護の在り方を模索するフランス人、マリー=ルーと、独創的な舞台劇を作り続ける日本人演出家、真里、2人の交流を追っていく。"ユマニチュード"と呼ばれる入居者たちの人間らしさを取り戻す介護を目指すマリー=ルーと、急進的な精神科医の考えに基づいた演劇を発表している真里の出会いは偶然によるものだが、立場こそ違え、似たような信念を持つ2人にとっては偶然ではなく必然だった。
マリー=ルーと真里が川沿いを散歩しながら関係を深めていく場面は、背景といい、構図といい、本作最大の見せ場だろう。人と人が一瞬にして結ばれていく喜びが画面から溢れ出て、フランス語と日本語の言語の壁は楽々超えていく。『ドライブ・マイ・カー』で描かれた多言語劇のスリルと感動が蘇る瞬間だ。
やがて、病気が急変する真里とマリー=ルーが互いに感じ合う、死の恐怖すら超越した生命と友情の永遠は、それまでの描写が長く、丁寧なだけに深く胸を打つ。それは、自由に海遊していた魚が網にかかって一気に手繰り寄せられるのに似ている気がする。思えば、『ドライブ・マイ・カー』('21年)の時も同じだった。濱口竜介監督は人が感じる時間の感覚を狂わせる独自の手法を改めて確かなものにしたのではないだろうか。
これから
介護ドキュメンタリー映画のようで、社会構造改革も志向する
ユマニチュード介護法をドキュメンタリー映画のように丹念に解説しつつ、その理念が現場職員と経営陣にも抵抗を受けている現実をも描いている。日本の抑制廃止宣言も、そのような現実の壁があったのではなかろうか。
日本語による独り芝居の場面では、日本人としてはわかり良かったけれど、フランスが舞台なので、フランス人の反応はどうなのか心配したが、やはり不満は表出され、反論はなされていた。しかし、2回目はフランス語で演じていた。字幕ディスプレイの準備は、『ドライブ・マイ・カー』と似ていた。
フランス人が日本語を話すのも不思議に思ったが、そこにも理由があった。けれども、みしらぬ自閉症の男性を日本人と決めつけて良かったのだろうかとも思った。
資本主義と少子高齢化の問題は、納得できた部分もあったが、民主主義と資本主義が結託しているのは、アメリカの民主党富裕層の話で、アメリカを始め、世界的にワーキングプアが右傾化政権を支えており、労働運動は、分断されつつも、共闘可能な課題設定が求められるところで、外来移民との共存模索も練り直す段階となっていると言えるだろう。
不可能が直ぐに可能になるわけではないが、挑戦することに意義があるというような回答には納得できた。演劇と同じように、理想の介護も一対一で始められる、という若手職員がいた。マリー=ルーは対立していたソフィと歩み寄り、また真理や五朗の手助けを得ながら、経営陣や行政からの支援も得ることができた。組織において戦略は大事である。
自閉症の男性にしても、入所者たちにしても、当事者俳優ではなさそうだが、混ざり合うことが良いことのように描かれていたけれども、果たしてそうなのだろうか。行方不明者捜索システムとしては両者は共通化できるだろうけれど、自閉症者にユマニチュード法が有効なのかどうか、検証が必要であろう。
良かったけど泣いたけど内容も詰まってたけど…
はい。長かった!でも、全然ダラダラではないです。見応えは十分にありました。うん。1番長く感じたのは、出会ってその夜、マリーの施設で話始めて、真里が介護を手伝ってからの場面かな。お互い意気投合して、お互いの意見を話してる様子。
涙が出たのは、2回。一つ目は、劇場での2人の質疑応答。真里が素性を告白して、世の中を良くしようと話す場面。「 不可能は不可能。しかし、可能になるまでのことだ。」と。心に響きました。もう一つは、マリーは話をしてる途中に突然真里マリーを抱きしめて「お母さんが死んだのはあなたのせいじゃない」と言った場面です。
「生」そして現代社会に対する「愛」をとても感じる良い作品でした。やはり濱口竜介監督は天才だなぁとつくづく感じました。他の作品もたくさん拝見したいと強く思いました。
多分俺が観た範囲での最も感動した映画
永遠の親友
共振する入れ子構造
ベルトルッチの「1900年」やコッポラの「地獄の黙示録」で撮影監督のヴィットリオ・ストラーロが切り取った、したたるような赤い夕陽の光の帯を連想させる、深く赤い光の帯でした。その赤い光が黒い陰の中で、浮かび上がるようなその部屋で、「すべて中途半端で何も残せない」といった趣旨のことをつぶやく真理に対し、独り芝居の主人公、吾郎が語るひとことが、とても印象に残っています。
なんという美しいシーンなのだろう。
吾郎の語ったその言葉は多分、この映画を体験する観客の感想と共振していたのではないかと思います。映画の中でマリーが真理の創造した演劇に深く共鳴したのと同じように、観客は、この作品の登場人物たちの魂の交流に深く共鳴し、成果物ではなくそのプロセス自体がもつ価値に感動する・・・そんな二重三重の入れ子構造をこの作品はもっているように思いました。二人がともに過ごした時間はごく僅かだったが濃密だったのと同様、この作品とともに観客が過ごした時間も、3時間足らずですが極めて濃密だったのだと思います。
「近づいて見れば、誰もまともなものはいない。」
吾郎演じるフランコ・バザーリアはイタリアに実在した人物で、イタリアに精神病院を無くした人だったのですね。AIで調べたら色々特殊要因はあったようですが、日本がとりわけこの方面では特に遅れていることがわかりました。日本の幸福度は世界でも高くはなくG7の中では最下位ですが、数字を押し下げている要因の一つが「社会の寛容度」なのだそうです。色々考えさせられる作品でもありました。
「構造」の内と外、どちらで生きる?
最近の話題性もあって上映最終日に映画館へ行って来ました。こころの時代と言われて久しい、現代の、色々な事を整理できた様な感覚になれる映画でした。日常の事から経済資本主義、仕事、コミュニティ、人間関係、健康、それと心との関係、そして何より生きるという事。世界中を覆い尽くそうとする資本主義にどっぷり浸かってお金を追う事も生きる事ですがそれはほとんど目に見える世界の事に価値を置いた生活。それは実は人間性を蝕む装置でもあるという事を確認した上で、その次の次元へというかもっと遥か先へ、より人間としての世界に、私達の心を置いてくれる映画だと思いました。
そういう心のシェアを通して友達ができたらどんなに嬉しいか、たとえ国や文化を越えても心の交流は普通に自然に生まれるんですね。というか、国が違うからこそ「構造」を高い次元で俯瞰できるのかもと思いました。
もっと話がしたい。もっと一緒にいたい
映画は、同じ濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」のように、劇団や多言語での会話など独特の雰囲気があった。内容は実際にあった書簡のやり取りをもとに製作されたという。介護施設を舞台に、現実に起こりうる入所者と支える側、経営者、改革を推進する指導者。これらの人たちが現場で繰り広げるさまざまなやり取りや葛藤。
思うように改革できず悩む指導者と舞台プロデューサーの日本人女性が偶然出会うところから、この物語が新たな展開へと発展していく。
映画の主人公が改革したいのは、入所者を人間として尊重し対応すること。しかし、施設側の都合(人員不足、研修の多さ、資金難、入所者減)などでなかなか思うように進まない。職員内で異議を唱え、去っていくものも出る。
二人は出会った瞬間に何かを感じる。後に、「もっと話がしたい。もっと一緒にいたい」と互いの思いを探りながら、何か考えている。話しぶりは、単刀直入だったり、言葉少なかったり、途中からは日本語とフランス語入り混じり、独特のやり方で進んでいく。この辺りはちょっと違和感を感じることもいろいろとあった。
しかし、この会話を通じて次第に相手を思いやり、共感し、手を差し伸べ、最後はいい形で物語が進み終わりを迎える。原作は往復書簡がベースだが、この主人公の二人の言葉のやり取り、相手をもっと知りたいという心から湧き上がる気持ち。ここがこの映画が伝えたいところではないか。現実には、ここまで突っ込んで話はしない。ただ、自分に「思い」があれば、単なる出会いが何かを変えてくれるものになるのだろう。
医療と介護の間
監督がなぜ「介護」を主題に置いたのか、鑑賞前は不思議に思っていた。しかし、映画を観終えた今、その意図が腑に落ちた。
この映画は、生活を制限し、リスクを回避し、可能性を狭めることで命を救おうとする医療のあり方に対して、希望をつかむためにリスクを取りながら人生を送るという、もう一つの生き方を描いた作品なのだと思う。
これは、原作に通底する「運命と確率」の話にもつながっている。
また、劇中劇の「私たちは病院の扉を開くのではなく、もう一つの扉を開くべきだった」というセリフにも、その思想が表れているように感じた。「もう一つの扉」という言葉からは、ケアの倫理の起点として知られる『もう一つの声で』が想起された。
命を最優先し、リスクを回避することを重視する医療に対して、常に「もう一つの視点」を提示するのが介護・福祉なのではないだろうか。
患者を救うという同じ目標を持ちながらも、ケアに対する倫理観は異なる。医療と福祉の間にあるこの対立構造は、いまだに介護現場における課題の一つである。
作中では、「もう一つの声」ともいえる、いわば福祉寄りの視点を中心に据えながらも、医療的な視点の重要性や、医療者たちの努力を尊重する描写もある。そのバランスには好感が持てた。
インタビュー記事の中で、主演の岡本さんは「原作の魂を描きたかった」と語っている。その言葉の通り、この映画は想像以上に原作からの直接的な引用を少なくしており、一見すると、原作とはまったく別の作品として捉えることもできる。
しかし、その根底には、映画と原作の双方に通底する信念がある。まるで、宮野と磯野の書簡のやりとりに、映画という作品が後から参加してきたかのような感触を覚えた。
一方で、気になる点もあった。
「ユマニチュード」という概念は、作品の中で一つのパッケージとして提示されることで、非常にわかりやすくなっている。しかし、昨今の介護の考え方においては、自己選択・自己決定が重視され、ケアは十人十色であり、一人ひとりに合わせて個別に提供されるべきものだという考え方が一般的になっている。
そのため、ノックの回数や身体への触れ方など、ある程度一般化されたユマニチュードの手法については、現在の介護のあり方から見ると、やや古い方法として受け取られる可能性もあるのではないかと感じた。
原作ファンにとっては、まるで作品の続きを読んでいるような特別感のある映画。一方で、原作に触れていない人にとっても、医療と介護・福祉、生きることとリスクについて、新たな視点から考え、感動できる作品になっていると思う。
30年ぶりの映画館
恐らく30年ぶりの映画館。魔女の宅急便以来だろう。長時間に恐れをいだいたが、最終日が真近かだったのが幸いして、とにかく近くで上映していたので、滑り込む。シニア1,400円と言うことを発見したのも背中を押した。すいていたし快適な映画館。
それにしても、見終わったらあっという間の時間だった。感覚的には一時間だ。この時間を感じさせないということが見事としか言いようがない。
展開は細部は複雑なのだが、メインの流れが明確なせいだろう。ヴィルジニー・エフィラの演じるマリー=ルーがパリの認知症を中心とした介護施設長として置かれている立場が描写された後に、岡本多緒の演じる演出家・森崎真理との出会いと、奇跡的な一晩、そして「急に具合が悪くな」って、そのあとの京都の山間部への展開のあと、また奇跡的なパリでの出来事へとスムースにストーリーが流れる。それでいて、映像的には、足裏マッサージとか介護実践とか即興的演劇とか鳩の糞とかにより象徴的に示され、言語的には、資本主義の袋小路がホワイトボードにより示される。認知症的にも、精神医学的にも、世界史的にも、主人公ふたりの間にも、ありえない奇跡が示されるのである。この奇跡は、ユマニチュードや精神病院解体やマルクスや、そしてマリー=ルーと森崎真理の人生が、相互に関係して共鳴したところに初めて生まれた。これを映画ならではの表現がされたこと、つまり数々の印象的シーンが重ねられたことが、時間を感じさせなかった理由なのだろう。クライマックスの屋外での演劇シーンでは、登場人物の認知症者も含めた全員か奇蹟を演じてしまうのだ。
マルクスの現代版(例えば斎藤幸平の解釈)の白板の図式。資本主義は常に外部を食い尽くす。その外部が食い尽くされてしまったこの今、このあとをどうするか、という図式。それが世界史における奇跡。ケアの限界も死という人間の限界も、奇跡によってだけ突破できる。その奇跡が描かれたということなのだ。
しかし、この映画にもし問題があるとすれば、このようにすらすらと解読されてしまうという、分かり易い点があるかもしれない。奇跡とは、そう簡単に理解できるものではないはずだからだ。とはいえ、30年ぶりの映画館作品としては充分に満足できるものだった。つまり映画館再入門作品として、うってつけだったわけだ。
20時30分から24時まで!!?
正直言って普段は娯楽映画しか基本的に観ないのですが、カンヌで賞を取ったと言うので興味本意で観てきました。
前半はフランスの介護を題材にしたフランス映画なんだなと、なかなか難しそう、フランス語のトーン眠気を誘う感じがして3時間半大丈夫かな?
介護士または介護経験者でないと共感しずらい映画なのかもと思ってましたが、
途中から日本語、日本人が出てきて私的には観やすくなりました。その分様々な情報が出てきて情報過多になってしまった気がします。
情報過多の中にも大きな軸はあったのですがこれをどうまとめるのかが私的には鑑賞のポイントになったのですが、綺麗にまとまったというか有耶無耶に映像美と撮り方で誤魔化したというか、まとまったのか?まとまったにしてはシーンが不足している気がするというのが鑑賞後の感想です。
良かったポイントというか凄いなと思った所は
睡眠について15分寝てしまったとか労働過多についてシーンがあるのですが、これは鑑賞中に寝てしまっても大丈夫と言う作者側からの肯定や優しさなのではと思いました。正直に申しますと計30分くらい
所々で寝てしまいましたが、あまり問題無かったです。むしろ意図的に寝ても繋がる様に作られてる感じがしまして、感激しました。
2回は観るべき作品だと思うので
もう一度観たいと思います。
美しくて気高くてリアル
196分という上映時間に少したじろいでしまい鑑賞するのが遅くなってしまった本作。序盤から少々驚かされる。ユマニチュードの手法がガッツリ描かれるから。日本でユマニチュードの本が(介護業界限定だが)爆売れしたのはもう何年前だろうか。とても衝撃的だったことを覚えている。研修のシーンを通して、その手法が語られるのはとても勇気のいる演出。しかもその手法に反発する人の意見が描かれることも。
でも、本作はそんな介護の映画ではない。マリ・ルーと真理の奇跡的と言える出会い、そして短いながらも彼女たちの交流を描いた物語だ。日本語とフランス語、どちらも操る2人の会話は2つの言語が入り混じったもの。2人が惹かれ合ったことに理由なんてない。魂が呼びあったみたいなものだろうか。運命という言葉で簡単に表現することに抵抗感を覚えるくらいにとても奇跡的に思える。
2人とも何かに抗ったり立ち向かったり戦ったりしている。それでいて気負いすぎていたりしない。そんな2人が互いに抱えているものをさらけ出し合うプロセスはとても興味深い。気分を害しないかと遠慮する感情を乗り越えて踏み込んだ質問が、質問された側からすると時にありがたく感じることもある。あなたのこと知るためにはどれだけ話しても足りないという感覚は少し共感し、かなり羨ましく思えた。あの2人のやりとりは美しかった。主演の2人の演技がやはりいい。あれほど穏やかで儚げで芯が強い雰囲気を出せる俳優はなかなかいない。
もう一つ印象的だったのは、真理がホワイトボードを使って資本主義の抱える構造的な問題を語るシーン。印象的というかかなり衝撃的だった。社会主義者ではないが、資本主義の限界や構造的問題を感じていた自分にとっては映画でこんなこと語るんだ!と。あれを踏まえて本作を考えると、認知症高齢者、自閉症者(智樹を演じた黒崎煌代が素晴らしい)、がん患者といった、アウトサイドの人たちが描かれた映画とも言える。資本主義の中でアウトサイドに押しやられている人たちとそれをサポートする人たちが立ち向かう物語。そう考えると、いろんなものが詰まっているのに詰め込み感をそれほど感じない。
上映時間が長いし、淡々としたシーンもそれなりにあって、退屈と感じる人も多いかもしれない。でも個人的には、とても美しくて、気高くて、リアルな2人の物語は全く飽きることがなかった。劇場で観ることができてよかった。
全414件中、1~20件目を表示











