センチメンタル・バリューのレビュー・感想・評価
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佳作だとは思うが……
家族三代に渡る、心の傷の継承と昇華の物語。
主人公ノーラとその父グスタヴとの関係性の描写を皮切りに、彼らがそのような間柄に至った理由となる過去に静かに分け入ってゆく。淡々と進む物語の中で、ノーラたち家族の心のひだがだんだんと鮮明に見えてくる。
残念ながら、私にとってはあまり刺さらない映画だった。丁寧に作ってあること、演技のクオリティが高いことは伝わってくる。姉妹の幼少時代にヨアキム・トリアー監督の娘を使ったり、祖父の体験を元にしたエピソードを織り込んだりと、監督の思い入れも感じられたが、主人公のキャラクターに対して生理的な抵抗感があった。
監督の前作「わたしは最悪。」の主人公ユリヤにも同じような抵抗を覚えた。もしかしてヨアキム監督の女性観が私に合わないのだろうか(この2作品しか観てないけど)。
演劇という芸術が親子関係の再生に一役買うというのはなかなかエモい設定だ。それに、ああいった断絶は普通の会話の延長でやり取りをしても修復が難しいように思う。
だが、祖母をモデルにした女性が自死する物語を父が作り、それが娘ノーラの自死未遂の時の心境に似ていたからノーラが父と和解するというのは、よく理解出来なかった。
映画からはグスタヴの脚本の詳細がわからないので憶測になるが、ノーラの心の奥底には、映画監督としての父に対する無自覚のリスペクトがもともとあったのではという気がする。
鑑賞後にパンフレットで知ったが、グスタヴはスウェーデン語、ノーラはノルウェー語で会話していたそうだ。このふたつの言語はよく似ているらしいが、互いに相手の言語をどこまで正確に理解出来るかはケースバイケースとのこと。私は当然鑑賞中は聞き分けられなかっが、あえて親子に違う言語で語らせることで関係の断絶やコミュニケーション不全を示唆した、とかいった意味合いがあるのだろうか。
他にも現地の人間や北欧の事情通でなければ気づかないような要素が多かったようで、この作品が本来表現しようとしているニュアンスを汲み取れていない部分も結構あったのかもしれないという気がした。
家族のあり方を住み慣れた家の姿に重ねながら、各々の登場人物の心の動きを映像と演技で見せてゆくのはよかった。最後はリフォームした家を売って映画製作の資金に当てたようだが、そのことも過去の遺恨を手放して親子関係を再構築しようとするノーラたちの心境にシンクロして、綺麗なまとめ方だなと思った。
心の傷が形を変えて受け継がれ、小さな歩み寄りと共に癒されるまでを、大仰な感情表現で観客を煽ることなく、過度に説明的になることもなく静かに描き切っている点については、脚本も俳優の力量もすごいと素直に思えた。メインキャスト4人全員がオスカーにノミネートされているのも納得だ。
また映像の美しさは出色で、特にマジックアワーの浜辺にグスタヴがたたずむシーンは印象的。北欧らしい洒落たインテリアにも目が癒される。
グスタヴが孫にプレゼントしたDVDの容赦ない作品チョイスにはちょっと笑った。何という英才教育。
振り返って頭で考えるほどきちんと作られたよくできた作品だなと思うのだが、ある意味こぎれい過ぎる物語のせいかノーラへの拒否感でつまづいたからか、特別な作品と言いたくなるような引力を感じられなかったのが残念。
とっちらかった家族に歴史あり。
丁寧に作られている映画だとは思うのだが、表現至上主義に因われた芸術一家が、怖いくらい人のいい外国のスターを犠牲にしたことよりも自分たちが繋がりを取り戻したことに満足していて、映画自体もその欺瞞をさらけ出すことより強権的な父との和解をゴールにしてしまっているように見える。結果的に、家族という呪い(という一面)の深さと、これをよしとする家父長制の強固さを突きつける作品になっているのだけれど、監督がどこまで批判的に捉えているかはわからず、自分としてはむしろ「まだこういう家族のどうどうめぐりが物語の核になるのか」という落胆の気持ちが大きい。一方で「個人個人が抱える混乱や葛藤はそれぞれのものだけれど、大局的には個人の問題が生じる背景と歴史は切りはせない」とハッキリ提示したのはとてもクレバーでよい視点だったと思う。こういう切り口を掘り下げたものを観たのは「トランスペアレント」以来かも。
「映画しか撮れないパパ」と「演技しかできないムスメ」の「映画」を通じた雪解けの物語。
これだけこじれた父娘の関係性が、
映画製作という共同作業を通じて
なし崩しで和解に至る過程って、
そんなことあるのかとも思うけど、
何となくわかる気もするんだよね。
現実社会では(特に人と人との対面では)うまく相手と向き合えなかったり、意思疎通がうまくできなかったり、関係性を修復できなかったりするのに、それを「手紙」にしたり、「小説」にしたり、「絵」にしたりして、「形」にすると、とたんに胸を打つ「作品」に仕上げることができて、相手に思っていることがうまく伝わるってこと、ないですか?
あるいは、対人関係的にはいろいろと問題の多い人物なのに、いざ何かを書かせたりすると、びっくりするくらい真実を射抜いた(思っている以上に核心をついた)すごい文章を書いてくる人とか、いないですか?
この映画のお父さんも、娘も、多分そういう人種なんだよね。
根っからのアーティスト・創作者であり、
根っからの自分本位でわがままな人物であり、
「直接のふれあい」よりも「創作物」でやりとりしたほうが、よりまっすぐな気持ちを伝えられる、不器用だけど、ある意味ギフテッドな人たち。
父親は、娘に対する理解を対面で伝えるすべをもたない。
でも「脚本」の形でなら、それを伝えられる。表現できる。
娘は、自分と妹と母親を裏切った父親を許すことができない。
でも「演技」の形でなら、想いを整理して表出することができる。
これは「映画だけはちゃんと作れる男」と、
「演技だけはちゃんとやれる女」という、
妙に似た者同士の父娘の織りなす、
「作品を介して」の和解の物語なのだ。
ピーキーな両者の間で、あたかもアダルト・チルドレンのように穏便なバランサーに育ち、幸福でこぢんまりした家庭を築いた、常識人の妹。
彼女は、父親がどういう生き物で、姉がどういう生き物かを、よくわかっている。
だからこそ、この映画が父と姉の紐帯となりうることを彼女は本能的に見抜いて、二人の間を一生懸命取り持つわけだ。
これから二人が作る映画は、たしかに長年確執を抱えてきた親子の雪解けを呼ぶ一作となるのだろう。
だが、これで三人が正しい家族関係を再構築できるかというと、実はそんなこともないのではないか、ともしょうじき思う。
たしかに、父親は娘との和解を心から望んだし、娘を主演に迎えて映画を撮りたいと願ったし、その脚本において娘の心情や苦悩を驚くほど正確にあぶり出してみせた。
だが、彼が娘にふたたび近づいたのは、突き詰めれば、娘への愛ゆえではない。
映画製作への情熱が、彼をそう動かしたのだ。
彼は、映画を介して娘と和解したかったわけではない。
娘の主演で映画を撮りたかったから、和解したのだ。
そうすれば、今の自分に撮り得る最良の映画が撮れるから。
自分の母親の話を、娘を使って撮るという座組が、最高の形で機能すると「わかっていた」から。
もちろん、娘たちのことは愛している。
捨てたつもりもなかった。それでも、
自由が監督としての自分には必要だった。
そのことは申し訳なく思うし、謝罪もしたい。
できれば、関係を修復したいと思っているし、
孫とも良いおじいちゃんとして交流したい。
だが……、彼にとって最も重要なのは、
それでも何より、映画を撮ることなのだ。
そのためになら、なんでも犠牲にする。切り捨てる。
なんなら、家族でも。友人でも。自分の命でも。
そのくらいの覚悟が、彼には常にある。
彼は畢竟「映画を撮るために」姉妹のもとに舞い戻った。
そこを決して見誤ってはならない。
では、この映画が完成したら、どうなるだろうか?
そのあとも、姉妹及び家族との良好な関係を持続できる?
それとも、結局はまたケンカになってしまうのでは?
あるいはまた、ふらっと離れてそのまま戻らないのでは?
没交渉になって、再び娘への関心を示さなくなるのでは?
そうでなければいいとは率直に思う。でも、
僕は、その可能性も十分にあると思いながら観ていた。
娘のほうも、まあまあややこしい人だから、
父親の映画で主演はちゃんと務めあげても、
面と向かって本人とちゃんとした人間関係を
はぐくむことが、本当に出来るものなのか。
そもそも、赤の他人が自分の代わりに映画に出ることがきっかけとなって、引きこもりになるくらいの精神的ダメージとショックを受けているのに、おそらく彼女は「なぜ自分がこんなにもダメージを食らい、情緒不安定になり、舞台にすら立てないくらい憔悴しているのか」全然わかっていないのだ。
妹のほうが、むしろ姉が病んでいる理由をちゃんと察していて、だからこそ台本を持って家に押しかけてくるわけだが、姉のほうはそこの心のロジックがよくわかっていない。
台本を読むことで、萎れていた心に立ち直りの兆しが生まれ、父親の映画に出ると決めたことでようやく完全復活するという流れは、彼女自身の自覚するところではなく、「結果論として後から体感する」感じだったのではなかったか。
そういう親子が、映画という「二人が噛み合う」奇跡のイベントが終わってなお、うまくやっていけるものか? そこは正直、よくわからない。
たしかに、双方に変化は生じた。
あれだけ「旧宅で撮る」ことにこだわっていた監督が、結局旧宅のほうはリフォームに回し、セットで映画を撮る方針に転換する。手持ちで撮れないから切り捨てようとしていた盟友の撮影監督を呼び戻す。そこには、どこかほっとするような「妥協」と「未来志向」と「こだわりを捨てて、自分にとって一番幸せな映画づくりを選び取ろう」という指針が見て取れる。そして、そんな父親を眺める娘たちの視線も、柔らかだ。
でも……、これはやっぱり「映画製作」という「超絶ホーム」のトポスが生んだ、ひとときの雪解けかもしれないのだ。
映画というメディウムを通したときだけは、心と心のやり取りが交わせたとしても、夢の時間が終わってしまえば、愛憎渦巻く元の木阿弥の父娘関係に戻ってしまう可能性は十分にあると思う。
もっと言えば、別にもう、二人はうまくいかなくてもいいのかもしれない。
父親が「本当はわかってくれていた」ことを娘は既に知ったから。
自分の映画で娘が「Perfect!」な足跡を既に残してくれたから。
この二人にとっては、それでもう、十分すぎるほど十分なのかもしれない、とも僕は思うのだ。
― ― ― ―
私事ながら、僕は思い出す。
昔、よく母に言われていたことを(って、まだ生きてるけどww)。
「あんたもお父さんも、いっつも映画とか観て泣いてるけど、実際の生活で喜んだり悲しんだりして泣いてるのを見たことがない。あたしは自分の人生で泣けるし、感動できる。あんたらは所詮作りもんでしか感動できひん、か●わもんや。人に泣けって用意されたもんでしか泣かれへん可哀そうな人間なんや。あたしにとっては、ほんまもんの人生のほうがよっぽど面白い。せやからダイジェストでしか感動でけへんような連中に、えらそうに感受性がどうとか語られとうないわ」
いやあ、ご説ごもっとも(笑)。
関西のおばちゃんは口は悪いが、常に鋭い。
僕の父親はジョン・フォードの駅馬車を50回以上観ているらしいが、いまだにヴィデオテープで鑑賞しながらボロボロと泣く。僕には一体どこに泣ける要素があるのかいまだに全くわからないのだが、父親にとってはどうやら凄い泣き所があるらしい。僕も『狼は天使の匂い』や『ミッドナイト・クロス』や『プリンセス・チュチュ』を観直してはボロボロと泣く。父親には頭がおかしいのかと鼻で嗤われるが、このあたりの作品は僕の涙腺を激しく刺激する。あとは、バルビローリやミトロプーロスの振ったマーラーの交響曲を聴いても、嗚咽する。
だが、僕も父親も、実生活ではほとんど泣いたりしない。
少なくとも、爽やかな日の出だからとか、人の情が胸に沁みたからとか、そんな理由では泣かない。
まあ、親しい人が亡くなればそりゃ悲しいし、ある程度は泣いたりすることもあるが、これは言ってみれば、条件反射のようなものだろう。
父親はそれでも結構な癇性で、「怒りのエネルギー」だけは只事ならざるものがあるが(笑)、僕なんかは基本、おそろしく感情の起伏が少ない人間である。
結局、僕も父親も、母親ほどには「生の人生に対する感受性」は発達していないんだろうなと思う。代わりに「創作物に対する感性」は、2サスと刑事ドラマと動物番組しか観ない母親よりは、それなりに磨かれているかもしれない。
でも、だからこそ僕はなんとなく、この映画に出てくる二人に共感できるのだ。
「映画」を通じてしか、交流が出来ない親子に。
「脚本」というダイジェストでしか、愛を表現できない父親に。
「演技」という仮面を被らない限り、父への愛が表せない娘に。
― ― ― ―
映画としては、さすがはカンヌを獲ったり、アカデミー外国語映画賞を獲ったりするだけのことはある、とてもちゃんとした作品だった。
同じ北欧だからか、こちらの先入観によるものか、イングマール・ベルイマンを想起させる部分があった気がするけれど(とくに『ある結婚の風景』とラストのあたりはよく似ているような)、あそこまで張りつめていないし、尖っていない。
ある意味、あまり作家性や映像美や目的意識などに気を取られることなく、純粋に「家族の問題を突き詰めたドラマ」と「迫真の演技」をゆったりと堪能できたような気がする。
●『軽蔑』や『アメリカの夜』と同様、これは「映画製作をモチーフとする映画」なのだが、そういう楽屋落ちの部分もふつうに楽しめた。老カメラマンがそこそこの豪邸を建てて住んでいて、「お前じゃなくてラッセ・ハルストレムのおかげだけどな」とか言ってたのは、特におかしかった。
そういえば「この映画はハンディで撮りたい」とか監督が言うんだけど、すぐあとに当のカメラマンがもうちゃんと歩けないことに気づくというシーンがあったが、『センチメンタル・バリュー』自体、静的なカメラワークに終始しながらも、常に微妙に「手ブレ」を伴っていたように思う。要するに、まさにハンディ主体で撮った映画だったというわけだ(パンフが売り切れていたから、まるで嘘かもしれないけどw)。
あと、子供に『ピアニスト』と『アレックス』のパッケージ持ってきて見せようとするネタもくすっときた。
●誰か別のレビュアーの方が書かれていたが、この映画、実はお父さんはスウェーデン語で話していて、他の人たちはノルウェー語で話しているらしい(そんなもんわかるか!!(笑))もちろん、エル・ファニングとお父さんは英語で話しているんだけど。
それってどういうこと? スウェーデンの地で監督として成功したから、スウェーデン語なの? それとももともとお父さんはスウェーデン語圏の人で、ノルウェーは「アウェイ」だったとか? それだと大昔に出奔した経緯にも関係してくるかも。
●エル・ファニングは、なんだかえらく可哀そうな役回りだったなあ。
監督のこと尊敬してて、そんな監督に誘われて喜びいさんでノルウェーくんだりまで来たのに、本当は自分は求められていない、これは当て書きの長女が演じる以外にない役柄だって、監督より先に気づいちゃって(笑)。
監督としては娘への遠慮があるぶん、断られてどうしようとなったときに、ネトフリと組んで人気女優呼んで資金を調達してって現実路線で考えたんだろうね。
で、エル・ファニングを呼びつけたわけだけど、あの読み合わせで、あれだけ彼女が演技としては十分感情の乗った熱演をしているのに、やっている当人も、観ている監督も、何かが嚙み合っていない、何かが違うって空気にどんどんなってきて、最後は演技で泣いているのか、真実の酷薄さに泣いているのかもわからなくなるような、あの「どこまでもいたたまれない感じ」が観客にもひしひしと伝わってきたのはすごかった。
逆に娘の読み合わせでは、ただ淡々と朗読しているだけなのに、本人がすうっと入り込んでいく感じや、父親が全幅の信頼を以て見守っている「空気感」がしっかり出ててね。
こういうのを「演出力」っていうんだろうね。
姉妹愛(良い映画だが丁寧過ぎ)
母と幼い姉妹を「捨てて」出て行った映画監督の父が、15年ぶりに新作を撮りたいと姉妹の元を訪れる。舞台女優としてすでに名を挙げている長女主演の構想。
すでに俳優として成功している長女ノーラは怒り心頭で激しく拒絶。
長年放置して今更何を言うか、でしょう。
自身、精神的に不安定で、舞台恐怖症のよう。舞台俳優で舞台恐怖症は致命的。俳優生命の危機を迎えている
父がいきなり戻ってきた理由は、老いて病んで心細くなり、急に自分の「家族」を思い出して長女をモデルに新作映画の構想を思いついた、(あわよくば娘たちに受け入れてもらって老後を過ごしたい)んだろう、と思っていたが、若干ニュアンスが違っていた。
グスタフは身勝手で自己中で相手の身になって考えることが苦手な人種だが、ふたりの娘たちに、自分にしかできない最高の贈り物をしたかった。それが主演映画。
次女にはすでに、子供のころにプレゼントしているが、長女にはまだ。
自分は老いて病気がある。どうしても長女に贈らなければ。
そんな強い思いに突き動かされてのことではないか。
15年の沈黙の理由はお金も問題かもだが、脚本を練る時間だったかもしれない。
父は、娘たちを愛しているが、表現が自分勝手で自己中なのだ。
(この父、「わたしは最悪。」のユリアと同じ人種。父に似ているノーラもそう。ヨアキム・トリアーは、こういう性質の人を描くのを好むようです。彼らは振り回した人たちへの罪悪感を感じることがない。まったく悪意がないのです。)
「家」が擬人化されて出てくるが、高祖父が亡くなり、グスタフの母が自死したその家、そしてなぜかここで暮らすことになってしまう一家の、引き継がれてきた血統の象徴なのでしょう。グスタフの母が、ノーラと同じレナーテ・レインスベで、二人はそっくり、ということなのだろう、グスタフは母と同じ道を、長女に取らせまいと懸命に回避策をとったんだろうか。(ちなみに、妹アグネスが泣きながら姉に読むように勧める脚本の感動箇所の意味がわかりません。表現も言葉も高尚過ぎて理解を超えちゃってる。「私は神を信じない、私は神だから」は父=姉の心情なの?)
一族の、特に父と長女メインの話のようだが、私には姉妹愛の映画と見えました。
幼いころに世話をし保護してくれたたった一人の姉にゆるぎなく深い愛を示すアグネス。あんな姉だけど、妹はお姉ちゃんが大好きだったんですね。
親は先に亡くなるが、きょうだいは長く一緒に生きていける。こういう姉妹がいたらいいなあ、と羨ましかったです。(私にも妹がいますが、ネッサローズみたいなやつ)
だけど姉ちゃん、妹ばかり働かせるなよ、お葬式でも実家の片づけでも妹はバタバタ働いているのに姉ちゃんはほぼ何もしてない、すぐ勝手にふらふら興味を惹かれたところに行ってしまう、こういうところは父の血を引いているなと思わされたが監督、意識したんだろうか?
ノーラでは衝突するばかりで話にならないが、姉妹の気持ちを父に伝えることもする。
父の映画に出てふたりで過ごしてうれしかったがすぐに父に捨てられた、その気持ちがわかる?と吐露する。息子を映画に出すことには、息子の気持ちを考えて二の足を踏む。
一家の接着剤のようなアグネスが、私はとても愛おしいです。
父も姉も結婚には向かない人たちだが、アグネスは夫、子供を大事にし、自分も幸せに生きる道を歩める人だと思いました。
アテガキのシナリオを他の俳優が演じるのは無理ですね。
レイチェルはがんばったけど、役を深く理解しようとするほど違和感が募る。彼女が優れた俳優である証です。グスタフは最初から彼女が辞退してくるのが分かっていたと思う。
また、自死が頻繁に出てきて個人的にいい気分ではなかった。
イケアの椅子、とか軽々しく話すのも違和感。
ノーラが演じた映画の主人公も結局自死するんだよね。これを娘に演じさせることで父は娘の自死を回避したんだろうか?
一家の血脈の象徴の「家」がセットで張りぼて、一家の話もどこからかはグスタフの映画の一部だったのでは?という面白さがありました。グスタフの脚本の内容は明かされていないので。
映画賞獲りへの意気込みを感じるし、実際獲って当然の作品ではあると思う。
俳優は誰もがすばらしく、ストーリーも良いのだが、こんなに尺必要だったんだろうか。
話が遅々として進まず、寝落ちしそうになった。
個人的には30分くらい削れたと思う。
グスタフの15年ぶりに新作に資金を出すのがNetflixというのがものすごくリアル。
いい映画ですが尺の長さでマイナス星0.5してしまった。
正直、私にはあまり刺さりませんでした。
劇中映画も何だかよかった
いつもの映画館
最終日1日前の駆込み鑑賞
カンヌグランプリとな
観ないことには映画ファンと言えぬ
アカデミー賞でも外国語賞だったか
ノルウェーか 言語が異なることもよく知らない
父親と娘の話だというし観るしかない
オラとは全然たたずまいが違った
オラはちびまる子ちゃんの友だちのパパキャラだ
で こんなに理解していない 顔はほぼ同一なのだが…
誠実な映画 オラの好きなタイプだった
エルファニングも好演 演技に誠実な姿勢
ノルウェー訛りも身に付けようと
妹が出演していた劇中映画も何だかよかった
今の時代に無視できないnetflixの存在もチラホラ
巨匠が撮るのには金がかかる
黒澤明が撮ろうとしたらこうなるのかも
分をわきまえないインタビュアーに喝
ところどころすっと理解できない箇所も
でもむしろ心地いい
・冒頭とか中盤のナレーションは誰目線
母親か 終わり際にも出ていたかな
・主人公の交際相手の終盤の拒絶
あとラストも 何だこれと一瞬思ったが
あぁそうかとなるほど やっぱり家は売ったんだな
魅了する演技 + 心地良い仕掛け
そこはかとない純文学的な香りが、鑑賞を躊躇わせていましたが、アカデミー国際長編映画賞受賞を後押しされ鑑賞できて良かったです。何より、キャストの演技に引き込まれました。3人の女性が体現する苦しみは、痛いほど伝わりました。共感しやすかったのが、Elle Fanningが演じる女優Rachel。何故なら、自分もRachel同様、長女Noraがどうしてあそこまで混乱し苦しむのか、理解しきれなかったからです。
子供が両親の喧嘩に、泣きながら耳を塞ぐ気持ちは分かります。正直、そうする時間が長かった分、相手に想いが通じても、その瞬間から終わりが来ることも悟ってしまい、結婚に夢を抱けなくなった気はします。
ただ、長女が妹Agnesに問う「あの環境で、どうして貴方は曲がらなかったの?」の「あの」が母子家庭を指すなら、母子家庭で育った自分は全力で反駁します。仕事しながら子を育てた母は大変だったでしょうが、鍵っ子の自分はアニメが再放送される時間帯にTVを独占できて天国でした。父が自死した直後こそちと不安定でしたが、1, 2年も経ってしまえば、父の不在が障害になった事は自覚できませんでした。しかし、本作の父は巨匠の映画監督。時折メディア等で健在なのを確認できてしまえるからこそ、自分の傍に居てくれない、自分を大事にしてくれていないという想いが募ったのかもしれません。幼少期に子役として父の映画に出た末娘Agnesが、「あのまま続けていれば」と言った父に、アンタは私の傍に居てなかったじゃんと反発したのは象徴的でした。流石に著名人の子供に生まれた経験がないので、Rachel同様、姉妹の気持ちは計り知れない部分があり、長女が鬱に陥る原因は理解しきれませんでした。
にも関わらず、不在だった父がNoraの苦悩を脚本に起こせてしまえるなんて、もはや魔法ですが、姉妹の反発を瓦解させる威力があったのも、分からなくもありません。終盤の仕掛けも見事。自分はまんまとハマってしまい、Noraが自死してしまはないかハラハラしました。撮影だった種明かしして直ぐの幕切れ。切れ味の鋭いさに痺れました。
絶対に許さないけど、絶対的に許してる
設定上の娘とほぼ同い年の目から見ると、父親のやることなすこと言うこと何をとっても
「お前が言えたことかーーーーー!!!!!目の前から消えろーーーーーー!!!!!」と主人公が叫び出さなくて偉いなぁと思った。
それくらい、父親は身勝手で、周りのことを思ってする行動も娘たちを怒らせる。絶対的に積み上げてきた時間が少なすぎるから、彼女たちが何に傷ついてきたのかを知らないのだ。だから自分の得意な分野(かつ自分がやりたいこと)で近づこうとするものの、散々煮湯を飲まされている娘は信用できない。そして病んでゆく娘。何もうまく行かない。
そんな中で、ある意味唯一家族の呪縛から完全に自由だったクロエ・モレッツが、あるべきものをあるべき姿にするため、ステップバックする姿はとても見ていて気持ちの良いものだった。
奥歯に挟まったものをすっかりとってくれた感じ。そう、スッキリしたと言う感想がふさわしい。
最終的に大円団っぽくなるのが気に食わないものの、タイトルの通り、笑顔で笑い合っていても、娘は決して父親のことを許したわけではない。それでも、家族という繋がりがあるからこそ、絶対的に許してしまっているのも確かである。
歪んでいても、愛情はあったことだけは認める。
そして全くもって無視されている母親の存在。父親にとって、自分の元妻に対する思いは、それほど薄く、どうでもいいという感情ですらなく、彼の中に存在していなかったんだろうな。
ちょっと退屈な良作
父に去られ、舞台恐怖症に侵され、愛を手にする方法がわからず、手を伸ばせば肩透かしを喰らう。「あなたは立派、私は失敗」。そんな自己評価のノーラが妹に、同じ境遇で育ったのにどうして私たちはこんなに違うのかと問いかけたとき、返ってきたのは「たったひとつ違うのは、私には姉がいてくれた」という答え。感動的だった。変えようのない事実、姉が自分で気づくことはない、でも絶対的にそうでしかない答え。私がノーラなら、きっとこの一言で人生がまるっと浮き上がるくらい救われる。
映画監督になった父グスタフは、母が自殺しない世界線を作った。自分の人生を修正し、自分のせいで軌道が狂った家族を救うために。そんなことで軌道修正できるのか?という疑問はなしにして、そういうことにして、それをやった。ノルウェーがナチスドイツに占領され、グスタフの母はレジスタンスに参加して拷問され、そのトラウマがいくらか影響して自殺して、母の自殺がトラウマになったグスタフは後に家族のもとから去り、父の不在に傷ついている娘は人生をうまく運べない。国の負った傷が、トラウマが、歴史をつたって個人を傷つけ続ける。悪いトラウマが、形を変えて連鎖する。断ち切るためには一つひとつを解きほぐし、遡り、癒していくことが必要だ。
グスタフは自分のトラウマを癒すために映画を撮っている。ノーラとの関係を修復したいのに、愛に包まれて幸せになってほしいと願っているのに、その願いは本人を前にすると「お前の母さんはその歳で娘が2人いた、なのにお前は結婚もせず…」といった嫌味混じりの小言に変換されて口からこぼれる。この人、口では上手く言えないから映画にしたんだな。
原題の「Affeksjonsverdi」は、北欧言語圏では相続・損害賠償などでも用いられる言葉で「市場価値は低くても持ち主にとって特別な意味を持つ物、金銭では測れない情緒的価値」という意味だそう。
物語の8割くらいまで、これ何か受け取れる?退屈、ちょっとしんどいかも…と思っていたが、最後の撮影シーンで、上に書いたこの映画の構造がわかって納得できた。それにしても映画の大部分は薄味、多くを語らず非常にアート的だがそれも弱い。ひとことで言うなら、ちょっと退屈な良作。
ノーラが打ちひしがれて泣き崩れるシーン、子どもを見送ったその足で自殺に向かうシーン。どちらもしみじみした悲しみとともに、やっぱり人生はそんなに都合のいいものではないんだな、というどこか慣れ親しんだ心地よさを感じながら見ていた。でも、蓋を開けたらどちらも芝居の中の出来事だった。こんなに薄味繊細な映画の中で、いかにも俗っぽい入れ子構造がぬけぬけと使われている。ピントの緩急極端やな、と思ったけど、好意的に見ればこのバランスが退屈の中のわずかな刺激になってまあ良いのかも。
父親が、知るはずのない私の心の傷を知っていて、父親が用意した箱に入り、そこで過ごすことで解毒される。映画ではうまく納まったけど、私はなんか嫌である。
何気にエル・ファニングがイイ
独身で舞台女優の姉ノーラ、家庭を持つ元子役の妹アグネス、家族を捨てた有名映画監督の父との関係をじっくり描いた作品
あまり観ることのないジャンルの作品だが本当に気まぐれで観ました
同じアーチスト肌の父とはウマが合わないノーラは新作映画の主役にと脚本を持って来た父を拒んで突き放す、妹のアグネスは堅実で二人の潤滑剤的な立ち位置を無理してやってる様な感じの微妙な感情をこの女優さんは上手く演じています、だんだん可愛くなってくる
新たな主役にエル・ファニングが選ばれるが、本読みや監督のイメージなどを聞くうちにだんだんと違和感を感じて、この役は自分ではなくノーラこそ相応しいと辞退する
この流れの演技が素晴らしい
後でアカデミー助演女優賞にノミネートされたと知って納得したと同時にお目が高いなと
父の作品に子役で出た事のトラウマが息子に出演を打診した父にブチ切れるが、それきっかけで脚本を読んでみて父の知られざる気持ちを知ったのか姉にも読むように進める
二人の憑き物が落ちたかの様な表情がキレイに撮られていた
姉妹愛溢れる素敵な作品でしたね
センチメンタル・バリューは本人にしか演じられない
初めてヨアキム・トリアー監督の作品を鑑賞したが、その圧倒的な完成度に戦慄した。何よりも、父と娘の間に流れる「バチバチ」とした火花が散るような緊張感が凄まじい。
映画監督である父ステファンは、かつて芸術のために家族を捨てた。劇中、彼が15年前に手がけた「ナチスから逃亡する姉が汽車の客室で涙を流すシーン」が映し出されるが、その映像美と緊張感には息を呑んだ。ハリウッドスターのレイチェルが出演を熱望するのも納得の、まさに「映画的」な芸術性の極致である。彼が家族を捨てた背景には、これら芸術への狂気的な執着と、直視できない「母の死」という悲劇からの逃避が表裏一体で存在していたのだろう。
一方、長女のノーラもまた、父を激しく拒絶しながらも、その本質は驚くほど父に似ている。彼女が舞台で見せる「倒れ込む演技」の執着は、彼女自身の中に流れる芸術家の業を体現しているかのようだ。父を拒みつつも、無意識下では表現者としての彼を認めていたのではないか。
そんな二人を繋ぎ止める妹アグネスの存在も欠かせない。姉に守られて育った彼女の中立的な視点があったからこそ、この歪な父娘の関係はかろうじて修復へと向かうことができたのだと思う。
死を目前にしたステファンにとって、この新作は娘たちへの贖罪の形だった。しかしそれは同時に、「私を理解し、私の罪を一緒に背負って演じてくれ」という、あまりにも重く、エゴイスティックな「最後のお願い」でもあった。
物語の終盤、レイチェルがこのことを理解し「この家族のセンチメンタル・バリュー(思い出の価値)は自分には演じられない」と降板を申し出るシーンには、胸が熱くなった。他者が容易に踏み込めない家族の聖域が、そこにはあった。
ラストシーンの鮮やかさは、鑑賞後も長く心に残り続けている。トリアー監督の他の作品も、ぜひ遡って見てみたい。
俳優4人の演技が完璧!
家が舞台であり、いろいろな変遷があったストーリーが紡がれ、
本作の象徴でもあると思う。ラストで壁とか壊すシーンは映画の資金調達のため
売却したからだろうか。
レイチェル主演がなくなり、Netflixも去ったと思われ。
Netflixだけど劇場公開する!というグスタフの発言後の
記者発表時の空気感が微妙な雰囲気でリアル。
冒頭のノーラの俳優としての不安定さ、ナーバスさが描かれ、
俳優の大変さもだし、とりまくスタッフの大変さもわかる。
すごくリアル。
レイチェルがグスタフの脚本の主演を演じるにあたり、
演じれば演じるほど自分にあっていないギャップを感じるというのが、
素晴らしい俳優だからに他ならない。
そこに気付いてしまい、どうしようもなくなるから。
その無理だという感情をグスタフに吐露するレイチェルにグッときた。
演じれば演じるほどレイチェルの表情はどんどん曇っていき、この場で涙が止まらなくなる。
ノーラは過去に捨てた父グスタフに対する怒りの感情が爆発するし、
妹アグネスも同様である。ただ、父の新作の脚本を読み、
これが姉のための作品であることがわかるとともに父の愛情に気づいたのであろう。
姉に読めというくだり、そして姉ノーラが読み父の思いに気づくと、
負の感情が払拭されていく。それが父の入院しているところで、父の元気な姿に出くわす
ふたりの表情でわかる。
表情といえば、本作は表情の映画だと言って過言ではない。
表情の機微で語るのが基本線で、観客に感情の理解が委ねられているところが良いし、
だからこそ鑑賞後に余韻がたなびくのだと思う。
しっかりハッピーエンドだけど余韻が残る。
ヨキアム・トリアー監督は只者ではないと感じた。
カット割というか、ノーラの感情が溢れるシーンが舞台の練習だったり、
ラストも映画のワンシーンの撮影中の場面だったり。実に見事。
映像も美しい。北欧独特の質感も好きだ。
133分があっという間だった。
エル・ファニングの新たな魅力も大発見。ぜひ、アカデミー賞をとってほしいと思う。
自由な社会の〝内的必然性〟という困難、親子という〝最後の呪い〟と優しさ
「私は最悪」などが高く評価されるヨアキム・トリアー監督。僕は監督のことを知らず、本作が初めてだ。
一言で感想を言うのは難しい。見応えは圧倒的だ。
形の上では、親子のドラマだけれど、もっと大きなものが入っている。世代を超えた記憶とトラウマの伝承がそれだ。さらに、民主主義の完成系とも言える安心で自由な国・ノルウェーで生きる葛藤も描かれていると思う。
無意識まで動かされた感覚で、言葉にできない感動が残った。大傑作だと思う。ラストの展開も見事で、大きなカタルシスがあった。
解釈の余地が大きい映画だと思う。映画の背景をネットで調べつつ、自分なりの勝手な解釈と考察をしてみたい。
トリアー監督は祖父の代からの映画一家。「奇跡の海」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(僕にとってのトラウマ映画だ)のラース・フォン・トリアー監督も遠い親戚という映画界のサラブレッドだ。現代のアート系映画のトップランナーと言って良いと思う。本作の主人公の世界的映画監督に、自分自身を託しているはずだ。
盟友の共同脚本家エスキル・フォクトと長時間の対話で作り上げる脚本の大方針が「2+2」の法則。「4」という答えは明示しない。観るものの解釈と想像力に任せる手法に、僕も絡めとられてしまった。
劇映画ではあるけれど、演出はリアリズム的だ。
登場人物たちの感情が、わかりやすく表情や行動に現れない。逆にとっぴな形で現れたりもする。これも徹底的な人間観察と内省によって見出されるリアリティ(人間の真実)だと感じるところだった。
舞台はノルウェー・オスロにある、代々引き継がれる2階建の大きな家。この家が、冒頭で主人公のように紹介される。戦争とナチスの迫害、一族の誕生と死、家族の幸福と軋轢、全てを目撃し、今に至っている。しっかりと作られた家なのに、当初から、この家には歪みがあり、壁には縦に亀裂がはしっていた。冒頭で家の紹介が、本作のダイジェストでもあり、テーマの提示となっている。
この家は「龍の様式」というノルウェーの伝統的な建築だそうだ。人の内面の歪み、人間関係の亀裂がさまざま描かれる映画。その歪みが歴史や世代を超えて、伝承されていくことが、この家に象徴されている。
この映画を観る上でのポイントは、社会背景と価値観の違いを抑えておくことではないかと感じた。同じ民主主義国である日本やアメリカとも、違った行動原則やルールがある。それを押さえておくと理解が違ってくる気がする。
現在の民主主義の出発点に、「自由・平等・友愛」を掲げたフランス革命がある。現在のアメリカや日本は、3つのうちの自由が最上位だ。平等は機会平等。機会を活かして、上位となることを目指す競争が社会の基調になっている。
(蛇足だけれど、日本の場合は、優れた個人になることが求められると同時に、周囲との調和という逆方向の社会的要求も高く、高い要求のハードルが生きにくさを加速していたりする。)
いずれにせよ、多くの資本主義国では、勝ち上がることを目指すサバイバルが人生と仕事の基本だ。失敗すると厳しい生活になってしまう。
ところがノルウェーは、サバイバルについては国が解決してしまった。これは「国家による個人主義」と呼ばれている。そして「ヤンテの掟」(うぬぼれるな。お前は特別な人間ではない)という規範が強く作用して、上位を目指す競争が起きにくい。政治や社会への信頼度が高く、高い税金と分配に国民が同意している。そこでは、自分の欲求(内的必然性)に従って生きることが、倫理観になっているのだと思う。
この感覚は、当たり前のようで、日本人には理解が難しい感覚ではないだろうか。
本作の日本語公式サイトには「あまりに不器用でこじれた父娘」と紹介される。確かにそうだ。
でも、不器用なダメなところがある人達…ということではない。なぜこじれるかというと、うまくやるために器用に振る舞うのは、不誠実だからだ。これを僕らは優しさとか配慮と考え、その方が大切だと感じていると思う。だから、友達のような親子関係が、現代の一つの理想になるのだとも思う。
本作では、父は母との口論が絶えず、幼い娘2人を残して、家を出ていってしまった。日本人的に言えば、残された家族への責任を放棄する無責任な行為だ。
しかし、世界で初めて無過失離婚を制度化したノルウェーでは、愛情のない相手と暮らし続けることこそ不誠実だ。偽りの関係を子供に見せることも、良いことではないと考える。
日本では、シングルマザーの貧困が大問題で、支援は全く不足しているし、養育費も支払われないことが多い。しかし、ノルウェーでは、経済的な心配がないから、家族を守る責任を放棄したとはならないのだ。
残る責任は、子供とコミュニケーションし、精神的な成長やサポートをすること。父は、それも放棄してしまった。主人公の長女が責めているのは、その点のみだ。経済的にも苦しくなかったし、十分な教育機会も得ることができている。
結婚は両者の合意の上での契約で、その契約は25年前に終わっている。妻の葬儀で顔を合わせた父から、妻の死を悼む言葉がないのは、彼の口ベタもあるが、それ以上にすでに終わったことだからではないだろうか。
内的必然性に正直であることが誠実な文化において、気持ちがないのにそれを口にすることこそ、不誠実だということなのかもしれない。
本作のストーリーの柱の一つは、放棄した娘への責任がどう果たされていくのかにある。
父は優れた映画監督であると同時に、映画でしか自分を表現できない人物だ。だからこそ、映画に熱中した。そして、その映画というコミュニケーション手段で、責任を果たしていく。
この流れは分かりやすい。しかし、驚くのは、本当に娘への愛情と興味を失い、責任を放棄したのだろうかということだ。
母のものだと思っていた家は父のものだった。彼は、何も要求せず、25年間、娘の成長の場として家を提供していた。
そして、最大の驚きは、主人公の長女を主役にした映画の脚本だ。父は娘に脚本を読んでくれと懇願するが、何度も拒否される。「25年も私たちを放っておいて、突然戻ってきて、私を主役にこの家で映画を撮るってどういうことよ」と、あまりに身勝手な父への怒りはもっともだ。
しかも、自分(の主演作品)を見て欲しいという娘からのアプローチを、父は何度も適当にあしらっている。見にきても、あっという間に帰ってしまう。ちょっと見ればわかるよ…なんていう言葉を誰が信用するだろうか。
しかし、父は一貫して娘を見ており、理解していたことが、映画の脚本で示される。父からすると娘、特に長女は自分自身を見るようなものだ。親の不在がトラウマとなって、精神的な混乱を抱え、人間関係が不器用なまま大人になった。自分自身に向き合い続けることを表現活動として、優れたアーティストに成長した。しかし、精神的痛みを抱え続けている。
脚本を読んだ姉妹が「25年間私たちを見ていたの? なぜここまで私たちのことを知っているの?」と驚くことから、話はさらに展開していく。
これは、父が25年間こっそりと家族の情報を得ていたということではないはずだ。
優れた人間への洞察力を持つに至った父が、自分の写し鏡として娘を感じ続けていたからわかったことだと思う。それに、優れた小説を読むと「なんでこんなに私のことが分かるのだろう」と思うことがある。実際、そんなファンに付きまとわれる小説家もいるそうだ。普遍的な人の真実を描き出せる優れた監督ということでもあるだろう。
その監督の素晴らしさに憧れたエル・ファニング演じるアメリカの女優が、監督に近づいてきて、娘の代わりの主演を勝ち取ることになる。彼女がまた本作に強烈なアクセントを加えている。
別の文化からやってきた彼女は、競争原理のアメリカで勝ち残った女優だ。しかし、全く嫌味がなく、作品に対して誠実であろうとし、優れた映画監督から徹底的に学び、理解しようとする。理解できないからではなく、深く理解したからこそ、主演を降りてしまうことに、取り返しのつかないような切なさを感じるし、彼女がいたからこそ、その先の親子の〝和解〟がある。この展開もすごいの一言だ。
もう一つの本作の柱は、世代を超えた精神的な混乱やトラウマの伝承と解消だ。
繰り返しになるけれど、ノルウェーはリベラリズムの完成系のような国でもあって、家族にも社会的条件にも縛られず、自由に生きられる。かといって、家族の影響からは完全に自由になれない。血のつながりの呪いは、世代を超えてしまう。
本作での第1世代は、監督の母。ナチスへの抵抗運動に参加し、迫害されたトラウマから、この家で自死してしまう。その歴史が家族にトラウマをもたらした。
第2世代は、監督だ。幼くして母に去られてしまい、その死の影を感じながら大人になった。母親不在が、家族との愛情生活を営めないことにつながった。映画という空想の世界での精神生活に逃げ込むしかなく、その結果、世界的巨匠となった。
「ナチスに弟を捕らえられ、1人自由になる少女」の映画を随分前に撮影し、それが高く評価されている。この作品自体が、監督の心の傷に向き合うための作品のはずだ。
第3世代が、2人の娘だ。本作の主人公の姉は混乱を抱えた女優で、恋愛にもとてつもなく不器用だ。妹は結婚し、子供も産んだ。この妹が、アメリカ女優と並び、成熟し適応している。
同じく父に捨てられた姉妹なのに、なぜ姉だけ不適応を抱えているのか?
これも本作では2つの理由が提示された。先の映画で、父は妹を主演に据えて、2人でトラウマ解消に取り組んだこと。そして、脆い母と不在の父に変わって、姉が保護者を勤めたこと。この辺りが明らかになる展開もしびれるところだった。
第4世代も登場する。妹の子供の少年だ。この少年の第4世代で、ナチスの歴史から始まった精神的な傷はやっと乗り越えられそうだ。それが本作の希望でもあるし、努力してもこのくらい時間がかかるということは、改めて認識しておくべきだとも教えられた。
最後に、本作を忘れられないものにしているのは、主演の姉の屈折したキャラクターによるところが大きい。
すでに主演級の女優に成長しているにも関わらず、全く自信がない。舞台の開演直前に「私は主演の資格がない」などと大混乱だ。
これもリベラルな社会のルール〝自由な人生の選択〟を深く内面化していることが遠因だと思う。自分の内的必然性と評価基準で生きるには、かなりの成熟が必要だ。他者の承認と共同体のルールで生きる方が簡単だし、彼女は主演に選ばれた段階でそれを得ているのだが、それは彼女にとっては全くの安心材料ではないようだ。
そのくせ、舞台に上がるために、裏方さんにビンタしてもらい、その彼を好きになってしまう。ベッドを共にしても愛は実らない。
その彼女が必要な自立への最後のステップが、父との映画制作になる。これによって、彼女が求めていた「確かな承認」を得て、愛情生活も自身も得ることになったかといえば、そうなのだけれど、そうでもない微妙な感じだ。
父と同じく、彼女も仕事でしか語れない。父と娘の関係も、カットの声がかかったところで、また微妙なものに戻らざるを得ないのかもしれない。
しかし、父も妹もアメリカの女優も、みんな優しいとしか言いようがない。その優しさの質が、僕らの常識とちょっと違っている。子供であっても保護する対象というよりも、自律した1人の人間であるという前提での優しさだ。
生存の不安がなくなり、自由がほぼ実現した社会でも、人は葛藤を抱える。実存の不安というのは、生存不安から比べれば、贅沢な悩みとしか言いようがないけれど、苦しさの種類が違うだけで、本当に苦しいのは変わりがない。
生きることの葛藤と苦しさは、人と繋がりつつ、自分自身でなんとかしていくしかないし、その努力は死ぬまで終わらないーーそんなことを教えてくれるような映画でもあると思う。
マクロなスケール感とミクロな描き込みが両立した傑作だ。監督のこれまでの作品を見ていきたい。アカデミー賞にも複数部門でノミネートされているようで、その発表も楽しみだ。
生家を巡る記憶と愛憎の「エッセイ」
ヨアキム・トリアー作品を観るのは、前作『わたしは最悪。』に続いて2本目。
新作脚本に込めた父の真意が長女の胸にストンと落ちる。その結果、まるで志賀直哉の「和解」のように長年の父娘間のわだかまりがふっと解ける。こうしてラビ・シフレの歌“Cannock Chase”が軽快に流れる中、ほのかな余韻を残しながら映画は幕を閉じていく。後味のよい鮮やかなエンディングだ。
かたやオープニングの方はこうだ——母の葬儀当日、ひょっこりと「父帰る」。その父は世界中の誰もが認める名監督であり文化人。だが、とうの昔に家庭を捨て、夫や親としては失格者だった……。
この出だしに『秋のソナタ』や『野いちご』の影を見て取り、トリアー監督と同じく北欧出身の巨匠イングマール・ベルイマンを連想した人も多いようだが、どうだろう。
たしかにベルイマン監督の『仮面/ペルソナ』のように、クローズアップされた複数の顔をオーバーラップで二重写しにする場面が本作にもあったりと、同監督からのインスパイアがうかがわれる。
しかし、作品全体が醸し出す雰囲気は、きりきりとした冷徹な人間観察が真骨頂のベルイマン映画とはだいぶ違う。本作は、肉親間の確執を描いてもそこまで深刻になり過ぎない。そこに漂うのは、むしろ一種の「軽やかさ」とでもいうべき空気感だ。その意味合いでは、1970年代末から80年代初頭にかけて『インテリア』でベルイマンに、『スターダスト・メモリー』ではフェリーニに迫ってみせたウディ・アレンの一連の作品群を想起させる(“9歳の孫の誕生日に 『アレックス』 と『ピアニスト』の 映画DVDをプレゼントする”とか、まさにウディ・アレン的なギャグだ)。
余談だが、最近の映画で、本作よりもっとベルイマンやフェリーニを連想させた作品というと、ノア・バームバック監督の『ジェイ・ケリー』を挙げることができる。もっともこちらの方は『野いちご』や『81/2』を砂糖漬けにしたような仕上がりで、多分にセンチメンタルな味わいだったが。
本作に話を戻すと、ここには期せずして近年の韓国映画との類似性もわずかだが感じられる、と言ったら強引すぎるか。たとえば、アフターパーティーの余韻もそのままにフランス・ドーヴィル海岸で一夜を明かすエピソードなど、フェリーニというよりむしろホン・サンス作品のテイストに近い。トリアー監督は役者の演技をじっくり見せるタイプではなく、結構せわしなくカット割りするから、長回しのホン・サンスとは一見真逆のようにみえるけれども。
また、自殺した親の記憶も宿す「生家」への深い愛着を丁寧に描いたり、劇中に「Netflix」の存在感をちらつかせるあたりは、先頃見たパク・チャヌク監督の『しあわせな選択』とも一脈通じる。これもまた偶然の符合だとは思うが。
ともあれ、本作をひと言でまとめると、芸術家肌の父と姉、家庭的で研究者肌の妹の三者が織りなす「ある家族の風景」であり、生家(ホーム)を巡る記憶と愛憎の「エッセイ」であるといえそうだ。それは今風にアップデートされた「エッセイ」だから、ある種の軽やかさと食い足りなさにつながってくる。ここが本作の持ち味であり、弱みであるともいえる。
最後につけ加えると、本作のエル・ファニングは、“若くしてハリウッド・スターながら、スレたところのない女優”という役どころである。彼女の大ファンなので、意表を突く今回のノルウェー映画出演には当初、興味を掻きたてられた。が、その見た目やキャリアから容易に想像される役回りで、適材適所といえばそのとおりなのだが、あまり新鮮味が感じられない。そんなところも往年のウディ・アレン作品に似てなくもない…。
のっぺりとイイ感じな雰囲気に帰結されてしまった
親子関係の複雑さと、そこに纏わる微妙な感情の動きを描いた作品。
通常の親子愛を描いた設定とは異なり、父親が映画監督、長女が舞台役者という設定が目新しくもあり、逆にテーマの焦点を少しぼやかしてしまった印象もあり、個人的にはそれが致命傷となり起伏のないのっぺりした映画に感じられてしまった。
親子の間に起きるギャップはかなり大きく、それを上手く描いていたと思う。特に冒頭の、家を擬人化した作文から始まったあたりや、姉妹の身長が刻まれた柱を描くあたりは、共感しやすい演出だった。
また、祖母が受けた拷問や、それに復讐するように騒音パーティに興じた妹の話も、サイドストーリーとして秀逸な効果をもたらしていたと思う。
しかし、最終的にイイ感じになった動機みたいなものがあまりに薄口で、雰囲気としては泣ける流れではあったが感情が乗らなかった。逆転の一手になった姉妹が抱き合って泣くシーンを作り出したのは「父親の隠された愛情」という、凡庸なもので、さらにそれを自己開示ではなく名監督による名脚本のようなかたちで描かれる。
父親が、娘を作品として描きたかったのも、似た境遇を持つ自分としてはよく理解できるが、それは飽くまで芸術家のエゴ・自分の表現欲によるものであり、親子関係に正面から向き合う行為ではない。地味でも派手でも良いので、父と娘に訪れた雪解けの理由が、もうちょっとしっかりと納得のいくハッとさせられる動機が描かれていると点数は全く異なったと思う。
怒っている人を愛するのは難しい
どことなくドキュメンタリー風な、場面の繋ぎが特異な撮り方がフランス映画っぽく、テーマは王道中の王道、愛することの難しさ。
家が赤から白へと変わり、家族を愛し、また愛されていると実感した後のノーラの強さ、美しさが印象的。
素直に愛の力というか、大事さを感じてしまいました…
家のヒビ、父と私達の間の日々。
母が亡くなったことを機に疎遠になってた父と再会する姉妹の話。
映画監督をする父グスタフに持ち掛けられる新作映画の主人公にとオファーを受ける舞台女優の長女ノーラ、裏切った父へ少し強く当たるノーラを宥める結婚をし息子のいる妹アグネス、主演の話は無理と断られ若手人気女優レイチェルを代役に立てるが…。
映画好きには堪らない監督や俳優のプライベートと映画製作の裏側を見てる様で。
数十年疎遠で出来てしまった父と娘達の溝、父が書いた脚本を通じ、その溝が埋まっていく過程がいい、アグネスの息子エリックも出演させようで置いていった脚本…その脚本を読んだアグネスから素晴らしい脚本と手渡され、その脚本の良さに気づき、泣きながら読むノーラとセリフを読むノーラを見ながら涙するアグネスには涙。
特に印象的だったのは監督を失望させたくないと主人公を演じきろうと自分を役に落とし込む努力をするエル・ファニングが演じるレイチェル、これは作品だけどこの姿を見ると、どんな作品でも俳優さんは演じようと努力されてるんだなとも思うし、俳優、作品貶しは安易にしてはいけないとも思ってしまう。
セリフに感情を入れるレイチェルの読み合わせには改めて俳優さんって凄いなと感動、作風も好みで楽しめた。
良い映画なんだけど
昔、家族を置いて出て行った親父に映画の主演をやってくれと言われる話。
良い映画なのは良い映画なんだと思うけど、感情移入しずらい。
娘2人と父親の視点で物語が進行するが、イマイチ確信に迫れていない、掴みづらい印象。それが良いのか?
母ではなく娘の事を思った映画だと云う結末。良かった。ラスト家をセットにした意味は僕にはよくわからなかった。なんでだろう?全てフィクションということではないと思いますが。
才能はあるが厄介な父娘の自己発見
本作は、「映画(演劇)のために真剣になっている」者たちの苦悩や滑稽さをひたすら映し出す。
老境の父は人生の総決算になるような映画を撮りたい。そのために実の娘に大事な役を演じてほしい。娘のほうは父の過去を許せず、全力で拒否する。
言ってしまえばそれだけのドラマなのだが、演じている人物の「役者」ぶり、さらにはその表情で重厚に、また繊細に表現しきる作品だった。
冒頭、舞台俳優である娘ノーラは、舞台の上ではなく、本番前に「出る、出ない」の大立ち回りを演じてみせる。緊張のあまり裏方の男性に「私を一発殴って」と懇願しつつ、いざ舞台に立てば最初のセリフひとつで観衆を納得させるのだ。
映画監督である父グスタフはべつに俳優ではないのだが、喫茶店で娘に出演を断られる場面、代役の女優に降板を申し出られる場面での悲哀の表情は、娘と双璧の演技合戦だった。
結局のところこの父と娘にとって、自分の才能を最大限表現することが人生の目的であり、対立しながらもそこが似ている。
周囲の者たちも、厄介に思いながら2人に巻き込まれていく。妹のアグネスは父との和解のきっかけをつくり、代役女優のレイチェルは「適役ではなかった」ことでむしろノーラを引き立てていく。
2人は映画内映画の女優からは降りていくのだが、この映画で父や娘の「演技合戦」の相手として絶大な魅力を放っているのが面白い。
ラストは家族の和解のようにも見える。が、ノーラは父と火花を散らしながら演じることが自分を発見する道だと気づいたのではないか。父と娘は、自分を完成させるパズルのピースとして互いを必要としていたのだ。
演じ直すことで生き直す家族の物語
2025年カンヌのパルムドール受賞作ということで先週2月27日に鑑賞したが、正直言ってもやもやして仕方がなかった。
どうにも、差し出されたストーリーとプロットが素直に肚に落ちないのだ。
この「すっきりしない感覚」は『悪は存在しない』と『遠い山なみの光』以来である。
そこで本日3月4日、改めて2回目を観に行った。
タイトルの"Sentimental Value"は、劇中、母の遺品を整理する姉妹の会話に出てくる。字幕の訳は「愛着のある物」だった。
しかしそれは単なる温かい思い出の品という意味だけではなく、捨てたくても捨てられない、捨てれば自分が消えてしまいそうな「過去の家族の記憶」であり、断捨離の「捨」も「離」もできない、一種の呪縛のようにも解釈できる。
「センチメンタル」がいつも淡い憧憬の枕詞とは限らないのだ。
初見時は、父グスタフが再起を賭けた新作のために娘や孫を「利用」しようとする利己的な人間にしか見えず、イタいなぁと思えたものだ。
だが、2回目を観て、彼の視点に立つと全く違う景色が見えてくる。
グスタフは、かつて「母親の自死」という激烈な経験をし大きなトラウマとなっているはずだ。
しかしトリアー監督はこの父の心理的な傷をほとんど説明していない。
意図的に語っていない、とさえ思える。
それはさらっと事実だけを提示するほど軽いものではないはずなのに。
そしてその事実と自身の経験を棚に上げるように平然と新作の脚本に織り込んでいるグスタフは、それだけを見たら一種の異常者にすら見えてしまう。
しかしグスタフにとって映画を撮ることは、現実に自身に起こった不条理を虚構に置き換えてコントロールする、唯一の「生きる術」だったのではないか。
彼がノーラたちを強引に配役したのは、冷酷な利用ではなく、映画という空間で家族の悲劇を「演じ直し、生き直す」ための、呪いを終わらせようとする悲痛な「祈り」に見えてくるのだ。
特筆すべきはラストシーンだろう。
祖母の最期をなぞるように自死の準備を進めるノーラ。
観客が悲劇の再演を予感し息を呑む中、彼女は「死なない」ことを選んだように見える。
そこで響くグスタフの「カット!」。
そして「完璧だ」と呟く。
あの「カット」の声は、単なる撮影の合図ではない。
自分の母を救えなかった過去を持つグスタフが、監督として劇中で娘を「死から救い出した」瞬間だ。
変えられない過去と不吉な運命を、書き換え可能なストーリーへと引きずり下ろしたとき、彼らを縛り続けてきた「センチメンタル・バリュー」は、ようやく解毒されたのだと思う。
自分たちを縛る過去を強引な「物語」で上書きし、生き直そうとする家族の姿がそこにある。
これは何度も観る価値がある作品だ。
役者の感情の機微が、リアルに丁寧に映像化されていて面白い。是枝裕和映画をちょっと思い出す。ラストシーンの開放感も素晴らしい。
これがちょっといい映画でした。
役者の感情の機微が、リアルに丁寧に映像化されていて面白い。是枝裕和映画をちょっと思い出す。
冒頭の開幕前の姉のノーラの舞台恐怖症のシーンは、この映画の繊細で激しい映画であることを予感させて、結構ドキドキさせるし、映像表現力のある監督であることがよくわかる。
家のこと、家を去った父のこと、女優を続ける難しさ、映画制作のこと、祖母のこと、反ナチス運動のこと、諸々人生を取り巻く諸問題を雑多に放り込んで、ごった煮にしているが、意外とスッと入ってくるのはシナリオがいいからか。
無駄のようで、無駄のない映像。カット、カットの切り取り方がやたら「唐突」。編集も特徴的。それがこの映画をダイナミックにさせている。
で、音楽が特徴的。うるさいぐらい伴奏してくる。それが先の感情を予見させたり、高揚させたりする。これも映画をダイナミックにさせている。
そしてなんと言っても役者がいい。上手い。無駄の演技がないというか、自然で振れ幅の大きい演技。主人公のレナーテ・レインスベ、妹役のインガ・イブスドッテル・リッレオース、父親役のステラン・スカルスガルド(渋い!)、スター女優役のエル・ファニング、みんな素晴らしい。
それと映画監督の父親の演劇に対する考え方が面白い(舞台美術が嫌いだとか言っていた。演劇があまり好きでないよう)。
ラストシーンの開放感も素晴らしい。
ダイナミックで、とても味わい深かい映画。何度も見たくなる。
この映画、35ミリフィルム撮影だったようで、暖かい色調はそのせいですね。
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