センチメンタル・バリューのレビュー・感想・評価
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その余白、その視線の先をじっくり味わえる、一度で二度美味しい映画
この時期になると、アカデミー賞云々という言葉が飛び交う。映画業界はさぞ神経をピリつかせているに違いない。洋画は私の主戦場ではないが、そこはミーハーな私。基本は押さえておきたいので、本作も例に倣って鑑賞。
近年、作品賞を受賞(しそうな)作品にはあまり縁がなかったのですが、久しぶりに「好きかも」と思える作品でした。ここは玄人映画の感性にほんの少しだけ自分の感性が近づけた瞬間と、素直に喜びたい…😅
無駄のない(少なくとも私にはそう感じた)余白が、あり余る想像力を掻き立てる。
その視線の先、その無言の奥を、つい覗き込みたくなる映画とでも言いましょうか。
「あの映画の監督さんね、はいはいはい」「主演もあの女優さんね、はいはいはい」なんて、少し知ったかぶってみたい病も発動🫣
洋画はあまり詳しくないけれど、「わたしは最悪。」あの時ちゃんと押さえておいて良かったわ…と密かに思う瞬間🤫
家族という、一番センシティブで難しい問題に、繊細にして鋭く切り込んだ作品。ラストまで観ても、大団円のスッキリ感は全く得られません⚠️
でも、そこが私は好き。
その後、この父と娘はどんな一年を過ごしたのだろう?
この家族の真のカタルシス(和解、浄化)はいつ訪れるのだろう?
持ち帰った余白をじっくり味わう。
映画が二度美味しくなる瞬間です。
人の感情というのは、「許す」「許さない」の二択ではない。それほど複雑で、いくらでも形を変えるもの。その生の感情がリアルに伝わってきて、一瞬ドキュメンタリーなのではないかと疑いたくなるほど。
嫌いだった父親に、実は一番似ているかもしれないと気づく娘。
映画監督の父が、最愛の娘にほんの少し近づけたかもしれないと感じた瞬間。
そしてそれでも家族の蟠り(わだかまり)は続いていく。
永遠にずっと。多分…。
一番愛している人が、一番嫌いなあなた。
そしてその嫌いな人は、自分の中にも住んでいるかもしれない。だから複雑で難しい。
さあ、矛盾に満ちた世の中を愛でよう🥳
あかん、想像と創造が止まらなくなる…。
これが、私の好きな映画の基準。
余白を持ち帰って、もう一度味わう。
そんな映画でした。
好き嫌いの分かれ目は、余白や曖昧さを許せるかどうかになりそう🤫
何事も白黒はっきりつけるのがお好きな方には、あまりお勧めしません。
加えてファミリー向けではないかもしれませんが、興味のある方はぜひ映画館でどうぞ♪
佳作だとは思うが……
家族三代に渡る、心の傷の継承と昇華の物語。
主人公ノーラとその父グスタヴとの関係性の描写を皮切りに、彼らがそのような間柄に至った理由となる過去に静かに分け入ってゆく。淡々と進む物語の中で、ノーラたち家族の心のひだがだんだんと鮮明に見えてくる。
残念ながら、私にとってはあまり刺さらない映画だった。丁寧に作ってあること、演技のクオリティが高いことは伝わってくる。姉妹の幼少時代にヨアキム・トリアー監督の娘を使ったり、祖父の体験を元にしたエピソードを織り込んだりと、監督の思い入れも感じられたが、主人公のキャラクターに対して生理的な抵抗感があった。
監督の前作「わたしは最悪。」の主人公ユリヤにも同じような抵抗を覚えた。もしかしてヨアキム監督の女性観が私に合わないのだろうか(この2作品しか観てないけど)。
演劇という芸術が親子関係の再生に一役買うというのはなかなかエモい設定だ。それに、ああいった断絶は普通の会話の延長でやり取りをしても修復が難しいように思う。
だが、祖母をモデルにした女性が自死する物語を父が作り、それが娘ノーラの自死未遂の時の心境に似ていたからノーラが父と和解するというのは、よく理解出来なかった。
映画からはグスタヴの脚本の詳細がわからないので憶測になるが、ノーラの心の奥底には、映画監督としての父に対する無自覚のリスペクトがもともとあったのではという気がする。
鑑賞後にパンフレットで知ったが、グスタヴはスウェーデン語、ノーラはノルウェー語で会話していたそうだ。このふたつの言語はよく似ているらしいが、互いに相手の言語をどこまで正確に理解出来るかはケースバイケースとのこと。私は当然鑑賞中は聞き分けられなかっが、あえて親子に違う言語で語らせることで関係の断絶やコミュニケーション不全を示唆した、とかいった意味合いがあるのだろうか。
他にも現地の人間や北欧の事情通でなければ気づかないような要素が多かったようで、この作品が本来表現しようとしているニュアンスを汲み取れていない部分も結構あったのかもしれないという気がした。
家族のあり方を住み慣れた家の姿に重ねながら、各々の登場人物の心の動きを映像と演技で見せてゆくのはよかった。最後はリフォームした家を売って映画製作の資金に当てたようだが、そのことも過去の遺恨を手放して親子関係を再構築しようとするノーラたちの心境にシンクロして、綺麗なまとめ方だなと思った。
心の傷が形を変えて受け継がれ、小さな歩み寄りと共に癒されるまでを、大仰な感情表現で観客を煽ることなく、過度に説明的になることもなく静かに描き切っている点については、脚本も俳優の力量もすごいと素直に思えた。メインキャスト4人全員がオスカーにノミネートされているのも納得だ。
また映像の美しさは出色で、特にマジックアワーの浜辺にグスタヴがたたずむシーンは印象的。北欧らしい洒落たインテリアにも目が癒される。
グスタヴが孫にプレゼントしたDVDの容赦ない作品チョイスにはちょっと笑った。何という英才教育。
振り返って頭で考えるほどきちんと作られたよくできた作品だなと思うのだが、ある意味こぎれい過ぎる物語のせいかノーラへの拒否感でつまづいたからか、特別な作品と言いたくなるような引力を感じられなかったのが残念。
なぜセットで撮影したのだろう
大変すばらしい作品だった。今年はこれ以上の作品に出合えるとは思えない。
俳優の娘と著名映画監督の父親。かつて家庭を捨てて出て行った父親に、娘は心を開くことができないでいる。母の死をきっかけに再会した2人だが、父親は娘を主演に映画の企画を検討している。自らの家族の物語をなぞるようなその内容に、娘の気持ちはざわつきを抑えられない。俳優の長女と家族を持つ次女の対比、映画監督の父が娘の幻影を投影するアメリカ人人気俳優を巻き込んで、心のひだを丁寧に描く。
新鮮な題材ではないし、強烈な今日性を宿した内容でもない。しかし、確実にしっかりと観客の心を捉えるその人間模様の丁寧な描写に心奪われた。
どうして、家族を捨てた父親は、娘のことをあんなにもわかっているのか。すごく残酷なような救いがあるような、何とも言えない感情がこみ上げてくる。
いくつかの、考えがいのある謎を残して終わるのもすごくいい。映画監督の父は実際に家族が過ごした家での撮影に当初はこだわっていたが、最終的にはセットでの撮影を選んだ。あれはどうしてなのか。どうしてなのかわからないが、何かしっくり来るような気もするのだ。答えが欲しいわけじゃなくて、なぜセットにしたのかを考えている時間が至福なのだ。
とっちらかった家族に歴史あり。
丁寧に作られている映画だとは思うのだが、表現至上主義に因われた芸術一家が、怖いくらい人のいい外国のスターを犠牲にしたことよりも自分たちが繋がりを取り戻したことに満足していて、映画自体もその欺瞞をさらけ出すことより強権的な父との和解をゴールにしてしまっているように見える。結果的に、家族という呪い(という一面)の深さと、これをよしとする家父長制の強固さを突きつける作品になっているのだけれど、監督がどこまで批判的に捉えているかはわからず、自分としてはむしろ「まだこういう家族のどうどうめぐりが物語の核になるのか」という落胆の気持ちが大きい。一方で「個人個人が抱える混乱や葛藤はそれぞれのものだけれど、大局的には個人の問題が生じる背景と歴史は切りはせない」とハッキリ提示したのはとてもクレバーでよい視点だったと思う。こういう切り口を掘り下げたものを観たのは「トランスペアレント」以来かも。
単なる家庭内ドラマ、業界内ドラマではない理由
かつて家族を捨てた映画監督が、あろうことか舞台俳優をしている実の娘を主役に据えた自伝的作品の撮影を始めようとしている。色々予感させるきな臭いプロローグだ。
その後、物語はこじれまくった父娘関係の橋渡しをしようとする次女の視点も加えて、芸術家としての老いを痛感している父親の焦り、舞台俳優なのに舞台恐怖症に苦しんでいる娘の複雑怪奇なトラウマ、そして、父親がどうしても描きたかった家族の歴史、等々が浮かび上がって、ちょっと想定外の面白さを見せ始める。
シルフィルにとっては、随所に挿入されるフェリー二やベルイマン、またはウディ・アレンから影響を受けたと思しきショットが気持ちをウキウキさせる。監督のヨアキム・トリアーが肌感覚で感じているはずのストリーミングサービスの台頭もさりげなく描かれていて、目新しくはないが映像業界の現実にも配慮した脚本に抜かりはない。
とある北欧の街で生活を営み、その後別れ別れになったとある一族のヒストリーは、何かを作ることでしか前に進めない芸術家の宿命に言及することで、凡庸な家庭内ドラマの枠からはみ出ている。でなければ、きっとオスカーの主要候補には挙がっていないのだ。
愛着と喪失
レビューを書く前の下調べで知ったのだが、英題「Sentimental Value」と意味的に一致するノルウェー語の原題「Affeksjonsverdi」は一語、つまりノルウェーでは「愛着や思い入れのあるもの」という文脈でごく日常的に使われる単語なのだそう。そんな言葉が生活に根差していることを、ちょっといいなと思う。
この映画で主人公ノーラたちにとって愛着のあるものといえば、やはり建物としての「家」だろうか。ただ、擬人化された家がそこで暮らす家族たちについて語るナレーションを挿入するセンスは、万物に神が宿るとする日本的感性にも近い気がする。
舞台女優のノーラ、妹で主婦のアグネス、2人の父で映画監督のグスタヴ、グスタヴが新作映画の主演をオファーする米女優レイチェル、以上4人を軸にさまざまな要素を盛り込んだストーリーが展開する。親から捨てられた子の喪失感、姉妹の絆、老監督が自伝的映画を撮るということ(映画作りについての映画でもある)、ナチスドイツによるノルウェー占領時代のレジスタンスに参加したグスタヴの母、戦争のトラウマと自殺などなど。語りのテンポはゆったりしていて本編尺133分が長いと感じる人もいるかもしれないが、これだけ多くの要素をこの時間によくまとめたものだと感心。
監督・脚本のヨアキム・トリアーと共同脚本エスキル・フォクトはともに1974年の51歳。中堅どころの世代だが、高齢のベテラン監督が描くような話であることに驚かされる。トリアー監督は長編全6作の脚本をフォクトと共同で担ってきたが、「自殺」を繰り返し扱っているのも気にかかる。身近な人を自殺で亡くしたとか、なにか執着する背景があるのだろうか。
グスタヴの新作のオリジナル脚本はノルウェー語だったが、米女優を主演に起用することになって脚本が英語に翻訳され、レイチェルはノルウェー語訛りの英語発話を試みる。この一連のエピソードで、ハリウッド映画の文化帝国主義的傲慢さ(非英語圏を舞台にした映画で米国のスターを起用し英語劇で作る)をさりげなく批判しているのも個人的に好きなポイントだ。
父と娘の人間模様を突き抜ける深度で描いた傑作
これは『わたしは最悪。』を凌ぐヨアキム・トリアーの最高傑作と言っていい。父娘の人間模様を扱った物語でありながら、しかしそこには映画監督の父と女優の娘という、まさに”表現者”ならではの葛藤もあり、各々のプロフェッショナリズムが炸裂する場面では、舞台芸術、劇中映画のワンシーンなど、ハッとするほどの格調高さが充満する。と同時に、これは視線の物語だ。「わたしを見てくれてる?」という思いを抱えたまま大人になった女性と、それに対してきちんと返せぬまま時が経ってしまった父。目線は今なお絶えず交錯する。そして面と向かって言葉にできない思いは一冊の脚本の中に。繰り返されるセリフや場面、家の成り立ち、一族の歴史といった要素すら織り交ぜつつ、傷つきながらも懸命に答えを、帰るべき場所を模索する二人の姿はリアルで感動的だ。それを支える妹、外からの新鮮な風を吹き込ませるファニングといい、全てが完璧に機能し合っている。
「映画しか撮れないパパ」と「演技しかできないムスメ」の「映画」を通じた雪解けの物語。
これだけこじれた父娘の関係性が、
映画製作という共同作業を通じて
なし崩しで和解に至る過程って、
そんなことあるのかとも思うけど、
何となくわかる気もするんだよね。
現実社会では(特に人と人との対面では)うまく相手と向き合えなかったり、意思疎通がうまくできなかったり、関係性を修復できなかったりするのに、それを「手紙」にしたり、「小説」にしたり、「絵」にしたりして、「形」にすると、とたんに胸を打つ「作品」に仕上げることができて、相手に思っていることがうまく伝わるってこと、ないですか?
あるいは、対人関係的にはいろいろと問題の多い人物なのに、いざ何かを書かせたりすると、びっくりするくらい真実を射抜いた(思っている以上に核心をついた)すごい文章を書いてくる人とか、いないですか?
この映画のお父さんも、娘も、多分そういう人種なんだよね。
根っからのアーティスト・創作者であり、
根っからの自分本位でわがままな人物であり、
「直接のふれあい」よりも「創作物」でやりとりしたほうが、よりまっすぐな気持ちを伝えられる、不器用だけど、ある意味ギフテッドな人たち。
父親は、娘に対する理解を対面で伝えるすべをもたない。
でも「脚本」の形でなら、それを伝えられる。表現できる。
娘は、自分と妹と母親を裏切った父親を許すことができない。
でも「演技」の形でなら、想いを整理して表出することができる。
これは「映画だけはちゃんと作れる男」と、
「演技だけはちゃんとやれる女」という、
妙に似た者同士の父娘の織りなす、
「作品を介して」の和解の物語なのだ。
ピーキーな両者の間で、あたかもアダルト・チルドレンのように穏便なバランサーに育ち、幸福でこぢんまりした家庭を築いた、常識人の妹。
彼女は、父親がどういう生き物で、姉がどういう生き物かを、よくわかっている。
だからこそ、この映画が父と姉の紐帯となりうることを彼女は本能的に見抜いて、二人の間を一生懸命取り持つわけだ。
これから二人が作る映画は、たしかに長年確執を抱えてきた親子の雪解けを呼ぶ一作となるのだろう。
だが、これで三人が正しい家族関係を再構築できるかというと、実はそんなこともないのではないか、ともしょうじき思う。
たしかに、父親は娘との和解を心から望んだし、娘を主演に迎えて映画を撮りたいと願ったし、その脚本において娘の心情や苦悩を驚くほど正確にあぶり出してみせた。
だが、彼が娘にふたたび近づいたのは、突き詰めれば、娘への愛ゆえではない。
映画製作への情熱が、彼をそう動かしたのだ。
彼は、映画を介して娘と和解したかったわけではない。
娘の主演で映画を撮りたかったから、和解したのだ。
そうすれば、今の自分に撮り得る最良の映画が撮れるから。
自分の母親の話を、娘を使って撮るという座組が、最高の形で機能すると「わかっていた」から。
もちろん、娘たちのことは愛している。
捨てたつもりもなかった。それでも、
自由が監督としての自分には必要だった。
そのことは申し訳なく思うし、謝罪もしたい。
できれば、関係を修復したいと思っているし、
孫とも良いおじいちゃんとして交流したい。
だが……、彼にとって最も重要なのは、
それでも何より、映画を撮ることなのだ。
そのためになら、なんでも犠牲にする。切り捨てる。
なんなら、家族でも。友人でも。自分の命でも。
そのくらいの覚悟が、彼には常にある。
彼は畢竟「映画を撮るために」姉妹のもとに舞い戻った。
そこを決して見誤ってはならない。
では、この映画が完成したら、どうなるだろうか?
そのあとも、姉妹及び家族との良好な関係を持続できる?
それとも、結局はまたケンカになってしまうのでは?
あるいはまた、ふらっと離れてそのまま戻らないのでは?
没交渉になって、再び娘への関心を示さなくなるのでは?
そうでなければいいとは率直に思う。でも、
僕は、その可能性も十分にあると思いながら観ていた。
娘のほうも、まあまあややこしい人だから、
父親の映画で主演はちゃんと務めあげても、
面と向かって本人とちゃんとした人間関係を
はぐくむことが、本当に出来るものなのか。
そもそも、赤の他人が自分の代わりに映画に出ることがきっかけとなって、引きこもりになるくらいの精神的ダメージとショックを受けているのに、おそらく彼女は「なぜ自分がこんなにもダメージを食らい、情緒不安定になり、舞台にすら立てないくらい憔悴しているのか」全然わかっていないのだ。
妹のほうが、むしろ姉が病んでいる理由をちゃんと察していて、だからこそ台本を持って家に押しかけてくるわけだが、姉のほうはそこの心のロジックがよくわかっていない。
台本を読むことで、萎れていた心に立ち直りの兆しが生まれ、父親の映画に出ると決めたことでようやく完全復活するという流れは、彼女自身の自覚するところではなく、「結果論として後から体感する」感じだったのではなかったか。
そういう親子が、映画という「二人が噛み合う」奇跡のイベントが終わってなお、うまくやっていけるものか? そこは正直、よくわからない。
たしかに、双方に変化は生じた。
あれだけ「旧宅で撮る」ことにこだわっていた監督が、結局旧宅のほうはリフォームに回し、セットで映画を撮る方針に転換する。手持ちで撮れないから切り捨てようとしていた盟友の撮影監督を呼び戻す。そこには、どこかほっとするような「妥協」と「未来志向」と「こだわりを捨てて、自分にとって一番幸せな映画づくりを選び取ろう」という指針が見て取れる。そして、そんな父親を眺める娘たちの視線も、柔らかだ。
でも……、これはやっぱり「映画製作」という「超絶ホーム」のトポスが生んだ、ひとときの雪解けかもしれないのだ。
映画というメディウムを通したときだけは、心と心のやり取りが交わせたとしても、夢の時間が終わってしまえば、愛憎渦巻く元の木阿弥の父娘関係に戻ってしまう可能性は十分にあると思う。
もっと言えば、別にもう、二人はうまくいかなくてもいいのかもしれない。
父親が「本当はわかってくれていた」ことを娘は既に知ったから。
自分の映画で娘が「Perfect!」な足跡を既に残してくれたから。
この二人にとっては、それでもう、十分すぎるほど十分なのかもしれない、とも僕は思うのだ。
― ― ― ―
私事ながら、僕は思い出す。
昔、よく母に言われていたことを(って、まだ生きてるけどww)。
「あんたもお父さんも、いっつも映画とか観て泣いてるけど、実際の生活で喜んだり悲しんだりして泣いてるのを見たことがない。あたしは自分の人生で泣けるし、感動できる。あんたらは所詮作りもんでしか感動できひん、か●わもんや。人に泣けって用意されたもんでしか泣かれへん可哀そうな人間なんや。あたしにとっては、ほんまもんの人生のほうがよっぽど面白い。せやからダイジェストでしか感動でけへんような連中に、えらそうに感受性がどうとか語られとうないわ」
いやあ、ご説ごもっとも(笑)。
関西のおばちゃんは口は悪いが、常に鋭い。
僕の父親はジョン・フォードの駅馬車を50回以上観ているらしいが、いまだにヴィデオテープで鑑賞しながらボロボロと泣く。僕には一体どこに泣ける要素があるのかいまだに全くわからないのだが、父親にとってはどうやら凄い泣き所があるらしい。僕も『狼は天使の匂い』や『ミッドナイト・クロス』や『プリンセス・チュチュ』を観直してはボロボロと泣く。父親には頭がおかしいのかと鼻で嗤われるが、このあたりの作品は僕の涙腺を激しく刺激する。あとは、バルビローリやミトロプーロスの振ったマーラーの交響曲を聴いても、嗚咽する。
だが、僕も父親も、実生活ではほとんど泣いたりしない。
少なくとも、爽やかな日の出だからとか、人の情が胸に沁みたからとか、そんな理由では泣かない。
まあ、親しい人が亡くなればそりゃ悲しいし、ある程度は泣いたりすることもあるが、これは言ってみれば、条件反射のようなものだろう。
父親はそれでも結構な癇性で、「怒りのエネルギー」だけは只事ならざるものがあるが(笑)、僕なんかは基本、おそろしく感情の起伏が少ない人間である。
結局、僕も父親も、母親ほどには「生の人生に対する感受性」は発達していないんだろうなと思う。代わりに「創作物に対する感性」は、2サスと刑事ドラマと動物番組しか観ない母親よりは、それなりに磨かれているかもしれない。
でも、だからこそ僕はなんとなく、この映画に出てくる二人に共感できるのだ。
「映画」を通じてしか、交流が出来ない親子に。
「脚本」というダイジェストでしか、愛を表現できない父親に。
「演技」という仮面を被らない限り、父への愛が表せない娘に。
― ― ― ―
映画としては、さすがはカンヌを獲ったり、アカデミー外国語映画賞を獲ったりするだけのことはある、とてもちゃんとした作品だった。
同じ北欧だからか、こちらの先入観によるものか、イングマール・ベルイマンを想起させる部分があった気がするけれど(とくに『ある結婚の風景』とラストのあたりはよく似ているような)、あそこまで張りつめていないし、尖っていない。
ある意味、あまり作家性や映像美や目的意識などに気を取られることなく、純粋に「家族の問題を突き詰めたドラマ」と「迫真の演技」をゆったりと堪能できたような気がする。
●『軽蔑』や『アメリカの夜』と同様、これは「映画製作をモチーフとする映画」なのだが、そういう楽屋落ちの部分もふつうに楽しめた。老カメラマンがそこそこの豪邸を建てて住んでいて、「お前じゃなくてラッセ・ハルストレムのおかげだけどな」とか言ってたのは、特におかしかった。
そういえば「この映画はハンディで撮りたい」とか監督が言うんだけど、すぐあとに当のカメラマンがもうちゃんと歩けないことに気づくというシーンがあったが、『センチメンタル・バリュー』自体、静的なカメラワークに終始しながらも、常に微妙に「手ブレ」を伴っていたように思う。要するに、まさにハンディ主体で撮った映画だったというわけだ(パンフが売り切れていたから、まるで嘘かもしれないけどw)。
あと、子供に『ピアニスト』と『アレックス』のパッケージ持ってきて見せようとするネタもくすっときた。
●誰か別のレビュアーの方が書かれていたが、この映画、実はお父さんはスウェーデン語で話していて、他の人たちはノルウェー語で話しているらしい(そんなもんわかるか!!(笑))もちろん、エル・ファニングとお父さんは英語で話しているんだけど。
それってどういうこと? スウェーデンの地で監督として成功したから、スウェーデン語なの? それとももともとお父さんはスウェーデン語圏の人で、ノルウェーは「アウェイ」だったとか? それだと大昔に出奔した経緯にも関係してくるかも。
●エル・ファニングは、なんだかえらく可哀そうな役回りだったなあ。
監督のこと尊敬してて、そんな監督に誘われて喜びいさんでノルウェーくんだりまで来たのに、本当は自分は求められていない、これは当て書きの長女が演じる以外にない役柄だって、監督より先に気づいちゃって(笑)。
監督としては娘への遠慮があるぶん、断られてどうしようとなったときに、ネトフリと組んで人気女優呼んで資金を調達してって現実路線で考えたんだろうね。
で、エル・ファニングを呼びつけたわけだけど、あの読み合わせで、あれだけ彼女が演技としては十分感情の乗った熱演をしているのに、やっている当人も、観ている監督も、何かが嚙み合っていない、何かが違うって空気にどんどんなってきて、最後は演技で泣いているのか、真実の酷薄さに泣いているのかもわからなくなるような、あの「どこまでもいたたまれない感じ」が観客にもひしひしと伝わってきたのはすごかった。
逆に娘の読み合わせでは、ただ淡々と朗読しているだけなのに、本人がすうっと入り込んでいく感じや、父親が全幅の信頼を以て見守っている「空気感」がしっかり出ててね。
こういうのを「演出力」っていうんだろうね。
映画という鏡を通して見える家族
華やかにみえても内面は葛藤だらけなのかもしれない。女優ノーラも、女...
華やかにみえても内面は葛藤だらけなのかもしれない。女優ノーラも、女優レイチェルも、どちらも脚光を浴びつつも辛さを抱えている。レイチェルが吐露する演じている役との接点のなさは、女優としてしっくりくる役にめぐりあえてない焦燥感なのかもしれない。そしてそれは、誰しもある感覚なのかもしれない。今のこの場所、しっくり来てる?ここでいいの?って。
愛着のあるものはいろいろあれど、それをずっと大事にし続けてきたとは言い切れない。でも大事なのは確かなことだったのに、うまく伝える機会がなかったりする。姉妹の伝えあいは本当に素敵だった。大事な人に大事だよって言えること、言われることはもっともっと頑張ったほうがいいと思ってる。空気として感じとれることだとしても、言葉は形になるのでしっかり伝わりやすい。この作品で一番ぐっときたのは姉妹の絆。
不器用な父と、傷つけられた娘たちの模索が丁寧に描かれていてよかった。
全てお見通し?
お見事!
姉妹愛(良い映画だが丁寧過ぎ)
母と幼い姉妹を「捨てて」出て行った映画監督の父が、15年ぶりに新作を撮りたいと姉妹の元を訪れる。舞台女優としてすでに名を挙げている長女主演の構想。
すでに俳優として成功している長女ノーラは怒り心頭で激しく拒絶。
長年放置して今更何を言うか、でしょう。
自身、精神的に不安定で、舞台恐怖症のよう。舞台俳優で舞台恐怖症は致命的。俳優生命の危機を迎えている
父がいきなり戻ってきた理由は、老いて病んで心細くなり、急に自分の「家族」を思い出して長女をモデルに新作映画の構想を思いついた、(あわよくば娘たちに受け入れてもらって老後を過ごしたい)んだろう、と思っていたが、若干ニュアンスが違っていた。
グスタフは身勝手で自己中で相手の身になって考えることが苦手な人種だが、ふたりの娘たちに、自分にしかできない最高の贈り物をしたかった。それが主演映画。
次女にはすでに、子供のころにプレゼントしているが、長女にはまだ。
自分は老いて病気がある。どうしても長女に贈らなければ。
そんな強い思いに突き動かされてのことではないか。
15年の沈黙の理由はお金も問題かもだが、脚本を練る時間だったかもしれない。
父は、娘たちを愛しているが、表現が自分勝手で自己中なのだ。
(この父、「わたしは最悪。」のユリアと同じ人種。父に似ているノーラもそう。ヨアキム・トリアーは、こういう性質の人を描くのを好むようです。彼らは振り回した人たちへの罪悪感を感じることがない。まったく悪意がないのです。)
「家」が擬人化されて出てくるが、高祖父が亡くなり、グスタフの母が自死したその家、そしてなぜかここで暮らすことになってしまう一家の、引き継がれてきた血統の象徴なのでしょう。グスタフの母が、ノーラと同じレナーテ・レインスベで、二人はそっくり、ということなのだろう、グスタフは母と同じ道を、長女に取らせまいと懸命に回避策をとったんだろうか。(ちなみに、妹アグネスが泣きながら姉に読むように勧める脚本の感動箇所の意味がわかりません。表現も言葉も高尚過ぎて理解を超えちゃってる。「私は神を信じない、私は神だから」は父=姉の心情なの?)
一族の、特に父と長女メインの話のようだが、私には姉妹愛の映画と見えました。
幼いころに世話をし保護してくれたたった一人の姉にゆるぎなく深い愛を示すアグネス。あんな姉だけど、妹はお姉ちゃんが大好きだったんですね。
親は先に亡くなるが、きょうだいは長く一緒に生きていける。こういう姉妹がいたらいいなあ、と羨ましかったです。(私にも妹がいますが、ネッサローズみたいなやつ)
だけど姉ちゃん、妹ばかり働かせるなよ、お葬式でも実家の片づけでも妹はバタバタ働いているのに姉ちゃんはほぼ何もしてない、すぐ勝手にふらふら興味を惹かれたところに行ってしまう、こういうところは父の血を引いているなと思わされたが監督、意識したんだろうか?
ノーラでは衝突するばかりで話にならないが、姉妹の気持ちを父に伝えることもする。
父の映画に出てふたりで過ごしてうれしかったがすぐに父に捨てられた、その気持ちがわかる?と吐露する。息子を映画に出すことには、息子の気持ちを考えて二の足を踏む。
一家の接着剤のようなアグネスが、私はとても愛おしいです。
父も姉も結婚には向かない人たちだが、アグネスは夫、子供を大事にし、自分も幸せに生きる道を歩める人だと思いました。
アテガキのシナリオを他の俳優が演じるのは無理ですね。
レイチェルはがんばったけど、役を深く理解しようとするほど違和感が募る。彼女が優れた俳優である証です。グスタフは最初から彼女が辞退してくるのが分かっていたと思う。
また、自死が頻繁に出てきて個人的にいい気分ではなかった。
イケアの椅子、とか軽々しく話すのも違和感。
ノーラが演じた映画の主人公も結局自死するんだよね。これを娘に演じさせることで父は娘の自死を回避したんだろうか?
一家の血脈の象徴の「家」がセットで張りぼて、一家の話もどこからかはグスタフの映画の一部だったのでは?という面白さがありました。グスタフの脚本の内容は明かされていないので。
映画賞獲りへの意気込みを感じるし、実際獲って当然の作品ではあると思う。
俳優は誰もがすばらしく、ストーリーも良いのだが、こんなに尺必要だったんだろうか。
話が遅々として進まず、寝落ちしそうになった。
個人的には30分くらい削れたと思う。
グスタフの15年ぶりに新作に資金を出すのがNetflixというのがものすごくリアル。
いい映画ですが尺の長さでマイナス星0.5してしまった。
正直、私にはあまり刺さりませんでした。
見れば見るほどナイトライダーのデボンさん😁
父帰る
を思い出した。
ただそれだけ。
最近本当に観たいと思える映画が少ない。
無理して観る必要はないのだが、
こんな田舎で映画館を維持してもらえていることに多少は貢献したい。
なので、今回も内容が許容範囲で時間が合った作品を選択。
ヨーロッパの映画祭で賞を穫った作品とは相性最悪なのは承知の上。
そして、やっぱりゲージツは理解できなかった。
まず、ヒロインに全く共感できず、めんどくさい女としか思えなかった。
かまってちゃんで無責任、周囲がなぜ重用するのか理解できない。
有名監督の娘だからか?
その有名監督もいただけない。
この父にしてこの娘あり。
こういう御大でございます的振る舞いは鼻持ちならない。
制作する映画もラストシーンを観る限り、私には良さを理解できない。
唯一心が動いたのはヒロインの妹の姉に対する思い。
姉がいたからこその自分だというシーンには長男として心に響くものがあった。
来週も映画難民は続きそう。
父と娘の確執。
面白かったし、楽しんだけど私自身は親との関係良好なんで、ピンと来るところは無かった。
スカルスガルド父はだんだんSir.ジョンギールグットぽくなってきてカッコ良い。エルファニングもアメリカ有名女優らしく華やかで、野心家で、繊細で半身のアンドロイドからのギャップが良かったよ。あて書きされた脚本別な人がやるのはきついよなぁ。対するノルウェー女優陣姉妹、良いコントラストだ。
簡単な話、子供を捨てた映画監督が女優になった娘と仕事したいと言ったら断られた話。娘的にはやりたいが、やりたくない…そりゃそうだ。しかも実際の実家(めちゃ素敵)でやな思い出もあるもんなぁ。
結末の旧家のリフォームとスタジオ撮影だけど、みなさんレビューでも?と書いてるが「完全に再生は無理だけど、まあまあ外見的にはいけてる関係に収まった」…という事じゃないかと私は理解した。
しかしカンヌグランプリほどの内容かな?という疑問が少しある。カンヌ審査員みんな家庭崩壊しとるのかな?
誰の視点にも立つことが出来る
妻や二人の娘を捨てて家を出て行き著名な映画監督となった父が、今や女優として活躍する長女のもとを突然訪れ「お前に当て書きした脚本を書いたから、この映画に出て呉れ」と依頼するお話。今も父を許せない長女は即座に拒絶します。
この作品は、脚本も演出も俳優も全て見事だったな。2時間余りの物語の中に、十年以上作品の撮れない父親も、舞台女優でありながら舞台に立つ恐怖から逃れられない長女も、今や主婦となっている次女も、憧れの監督に乞われてアメリカから遣って来た女優も、登場人物全員の思いが深く織り込まれ、誰の視点に立っても物語を観る事が出来るのです。そして本作は、単なる家族再生の物語であるだけなく、「芸術とは何なのか」「創作には全てが許されるのか」などの問いまでもを潜ませています。
終盤は、お互いに分かり合えたかの様な暖かさで終わりますが、いやいや本当にそうなのかの疑問も残るのです。長女は父をまだ許してはいないけれど、その作品の芸術性に心打たれただけでないのか。また、この父親は後悔している様でいて家父長的傲慢さは何も変わっていないのではないか。
でも、この映画ではそこを描き切る事はありません。それは作劇上の計算なのでしょうか、監督自身も気づいていないのでしょうか。本作を女性監督が撮っていたら違った作品になったのではないだろうか。その様に、観終えてから様々に想像を巡らせてしまうのも力の有る作品の証でしょう。
劇中映画も何だかよかった
いつもの映画館
最終日1日前の駆込み鑑賞
カンヌグランプリとな
観ないことには映画ファンと言えぬ
アカデミー賞でも外国語賞だったか
ノルウェーか 言語が異なることもよく知らない
父親と娘の話だというし観るしかない
オラとは全然たたずまいが違った
オラはちびまる子ちゃんの友だちのパパキャラだ
で こんなに理解していない 顔はほぼ同一なのだが…
誠実な映画 オラの好きなタイプだった
エルファニングも好演 演技に誠実な姿勢
ノルウェー訛りも身に付けようと
妹が出演していた劇中映画も何だかよかった
今の時代に無視できないnetflixの存在もチラホラ
巨匠が撮るのには金がかかる
黒澤明が撮ろうとしたらこうなるのかも
分をわきまえないインタビュアーに喝
ところどころすっと理解できない箇所も
でもむしろ心地いい
・冒頭とか中盤のナレーションは誰目線
母親か 終わり際にも出ていたかな
・主人公の交際相手の終盤の拒絶
あとラストも 何だこれと一瞬思ったが
あぁそうかとなるほど やっぱり家は売ったんだな
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