コラム:二村ヒトシ 映画と恋とセックスと - 第43回
2026年9月24日更新

作家でAV監督の二村ヒトシさんが、恋愛、セックスを描く映画を読み解くコラムです。今回は、1970~80年代に全米で300人以上を殺害したといわれる伝説の殺人鬼で、「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクターのモデルにもなったといわれるヘンリー・リー・ルーカスの日常を描いた犯罪スリラー。恐ろしい殺人鬼を描く本作は「三角関係の恋愛映画である」と二村さんが考察します。
※コラム本文にはネタバレ描写を含んでいます。
殺人鬼を描くが、三角関係の恋愛がさみしくてやりきれない気持ちになった映画「ヘンリー」

© 1986 MALJACK PRODUCTIONS
憎んでいるわけではない相手を殺したい、とにかく人を殺したいという欲望は、おかしな欲望だ。
もちろん、そんな欲望は悪の欲望です。実行してしまった者は精神鑑定を受けなければならないし、その結果によっては極刑に処せられる。だが、それはそれとして、善悪の話とは別の話を今からします。
僕は、人間の三大欲求は食欲・睡眠欲求・性欲ではなく、「食欲 ・睡眠欲求・愛されたい欲」の三つだと思う。ぐっすり眠りたいという欲と食欲は、栄養や休息をからだがメカニカルに必要としているから湧くのであって、人間が生きていくための当然の権利でもある。そして、それとは全然ちがう回路で「愛されたい」という欲望が多くの人間にはある。愛されなくても人間は、すぐには死にはしない。ただ、愛されていない人は長い目で見ると死にやすいかもしれない。
性欲というのは個体の生存には何の関係もない。セックスもオナニーもしなくても人間は死なない。おたがいに性欲があったら愛し合いやすいから、愛し合えれば生きていきやすいから備わっているのであって(子どもを作らなければならないから人間には性欲が備わっている、みたいな考えはもう古いだろうと僕は思う)、むしろ自分勝手な性欲をもっている人間は愛されにくい。
愛し合うためにも、なるべく他人から嫌われないようなコミュニケーションをしましょうというのが社会性というものだ。でも社会性が身につかないまま大人になってしまい、とりあえず生きている人もいる。僕もそうだけど、他には、たとえばこの映画の登場人物であるオーティスもそう。
▼ねじくれたまま大人になったオーティスと愛されたい意欲がないヘンリー

© 1986 MALJACK PRODUCTIONS
オーティスはねじくれている。ねじくれているけれども、主人公ヘンリーに対する態度とかを見ていると、オーティスはきっと本当はさみしいんだろうなと思う。でも、あんなふうにねじくれていたら誰からも愛されるわけがないし、さみしいのに自分のねじくれをどうすることもできなくて、彼はヘンリーについていくことしかできないんだろう。
そしてヘンリーには「愛されたい欲」がそもそもない。ないように見える。愛してほしかったのに、自分のコミュニケーションが受け入れてもらえず、裏切られたような気がして相手を殺してしまうということは人間にはある(これも、もちろん善くないことです。なんにせよ人を殺すことは善くない)。大量殺人犯の中にだって、そういう悲しみにとり憑(つ)かれた人はいる。
殺すまではいかなくても、インターネットに自分と意見がちがう人の悪口をずっと書いていたり、ずっと皮肉を言っていたり、そういう人はよくいる。そういう人たちのそういうことをする気持ちは、性欲や愛されたい欲がゆがんだものなんだろうと僕は邪推する。そこまで邪推しなくても、そういう人たちはきっと本当はさみしいんだろうなと多くの人が思うだろう(本人だけが、そう思っていない)。
それから、生きていく上で困窮して、他人から何かを奪うために殺すということが人間にはある。世の中が戦争になって、国から命じられて人を殺すということもある。だがヘンリーの殺人は、そのどれでもない。
▼殺人鬼ヘンリーが人を殺す動機とは

© 1986 MALJACK PRODUCTIONS
「ヘンリー」の主人公ヘンリーは、むやみと人を殺す。映画の最初のほうでは主に女性を殺している。映画は女性の死体を蠱惑的に撮っていて、観ているこっちは、そこに美しさを見てしまって、すぐに嫌な気持ちになる。心を揺さぶられるとはこのことだ。
それで映画の観客は、この映画は「まちがった性欲」として女性ばかりを狙う殺人鬼を描くのだろうと見る。だが、どうやらそれはミスリードだ。
そのうちヘンリーはどうでもいい男たちのことも、とても雑に、まるでドタバタ喜劇のように殺し始める。日常的に、あっさり殺すようになっていく。映画を観ているこっちは笑うしかないが、笑った後にまた嫌な気持ちになる。
驚くべきことにヘンリーは、人を殺そうとしていないときは、なかなかちゃんとした男なのです。殺人鬼の素顔を隠すために紳士の仮面をかぶっているというフィクションによく出てくるタイプのキャラクターではない。貧困だし(そして、その貧困にそれほど苦しんでいるふうでもないし)、相手の懐に入り込むような人懐っこさも甘さもない、不器用で無骨で寡黙な男。ずうずうしくないし、いじけてもいない。殺さないとき女性に優しい。下心のない優しさ。
殺すために、油断させるために女に優しいのだとしたら、その殺したい欲は憎しみによって変形した性欲だから優しくするのだろう。殺したいわけではなくセックスがしたいだけの「普通の」男の中にも、下心で女に優しい男がいる。だがヘンリーは、どうやらそうではない。
オーティスみたいに女にも男にもモテないのに「ある意味で普通の欲望」を抑制できないキモい男と、人を殺してないときの下心のないヘンリーを比べたら、女性は、どう考えてもヘンリーを選んでしまうだろう。人を殺してないときのヘンリーは、ぜんぜん怪しくないし。
▼オーティスとヘンリーのコミュニケーションの方法

© 1986 MALJACK PRODUCTIONS
もう誰かから愛されることをあきらめてしまっていて、そのあきらめの姿がとても醜いオーティス。オーティスとちがってヘンリーは自分が人から愛されたいという欲望がよくわからないから、無関係な人も殺すし、自分をイラッとさせる人も殺すけれども、自分のことを愛しかけている人のことも同じように殺す。愛されてしまいそうだから怖くて殺すのではなく、他の人と同じように殺す。
劇中ヘンリーは、自分は子供のころ親に虐待されていたようなことを言う。しかしそれが真実なのかどうかはよくわからない。「ダークナイト」でヒース・レジャーが演じたジョーカーのように面白がって自分について嘘か本当かわからないことを言ってるふうでもない。
ヘンリーは自分のあらゆる感情が、よくわかっていないのかもしれない。でも、そういう人は沢山いる。あなただって僕だって、人は殺さないにせよ、いろんな人生の局面で自分の感情がよくわからないんじゃないだろうか。自分がなぜその行為をしているのか、あなたはわかってますか? なぜそういう欲望をもつ人間になったのかも、わかっていますか?
オーティスがコミュニケーションを本当はしたいのにうまくできない人間だとしたら、ヘンリーには他人とのコミュニケーションが最初から、ない。あるふりをして生きている。できないとか苦手だとかではなく「ない」というのは、ヘンリーが他人になんの期待もしていないということだし、他人にとってもヘンリーという人は結局まったくわからないということだ。そんな孤独に人間は耐えられるんだろうか。
ある種の女はしばしば「下心はなさそうで怪しくないし危険そうではないけれども、よくわからない男」に惹かれる。好奇心をもってしまうのだろう。
ヘンリーの心の謎は最後まで誰にも解けないのだが(そこに関心を持って近づいた者は殺されてしまうから)、もしかしたらヘンリーの殺人はコミュニケーションの代わりなんじゃないかと僕には思えてきた。彼は彼なりにコミュニケーションのようなことをしているつもりなのでは。だから彼はさみしくならないんじゃないだろうか。コミュニケーションをすると、なにか(たとえば「安心」とか。コミュニケーションがうまくいかないと「怒り」とか)が自分の中と、相手の中に、生まれるだろう。

© 1986 MALJACK PRODUCTIONS
よくわからないけれどヘンリーも、人を殺すと安心するのかもしれないし、殺せないとイライラするのだろう。殺された人の側には何にも生まれず、だから、あたりまえだがそれはコミュニケーションではないのだが。
ほとんどの場合、人間と人間はコミュニケーションによって何か(ものだけではない。感情とかも)を与えて、受け取って生きている。交換をするということが、人間が生きていくためには必要だとされている。だが「とにかく相手を殺す」というコミュニケーション(のようなこと)をしても、なにも返ってはこない。あたりまえだが、相手は死んでしまうからだ。
だがヘンリーのほうはコミュニケーションをしてるつもりだから、さみしくない。ヘンリーは殺した相手のギターを持って帰ってきたりするが、べつに奪うために殺したわけではないので、それは戦利品ではない。欲しかったわけではなく、ただなんとなく持って帰ってしまったのだろう。
いや、手に入れようとして手に入れたものもあるな。テレビとビデオカメラ。だが、あれも奪うために殺したのではなく、たんに店の人にイラッとしたから衝動的に殺したのだが、結果的に殺すというコミュニケーションを(いやなコミュニケーションだなあ)お店の人に支払って、それをテレビやビデオカメラと交換したと言えるのではないだろうか。なにを言ってるんだか自分でもよくわからなくなってきたが……。

© 1986 MALJACK PRODUCTIONS
▼殺人鬼の映画なのに、三角関係の恋愛映画でもある
その人になりたいと思える相手(自分がやりたくてやれないことを軽々とやってしまう人)と一緒にいたい、と欲望する。あるいは、このウンザリする世界から自分を連れ出して、どこか別の世界を見せてくれそうな人を好きになる。恋をするとはそういうことだ。オーティスの妹ベッキーがヘンリーにいだく純情な感情も、典型的な恋だ。オーティスがヘンリーにいだいた感情さえ、恋と呼んでもいいのかもしれない。だからこの映画は三角関係の恋愛映画だ。
だがヘンリーはオーティスの気持ちにも、ベッキーの気持ちにも、応えることができない。オーティスやベッキーが何を求めているのかがヘンリーにはさっぱりわからない。ヘンリーは、オーティスには「人を殺せばいいんだよ」と教える。
オーティスはさみしいからヘンリーの言うことを聞く。ヘンリーの真似をすれば人を簡単に殺せることを知って一時的に万能感をえる。だがオーティスは、やっぱりさみしい。むしろ以前よりもさみしくなってしまう。オーティスはヘンリーではないからだ。
ヘンリーの側ではヘンリーなりに、オーティスにも、ベッキーの恋にも応えたのだ。だからヘンリーはさみしくない。彼は彼なりのコミュニケーションをして、それがうまくいっているから。その代わりに映画を観ていた僕は、とてもさみしくなった。
殺人鬼の映画なのに、あまり恐ろしいという気持ちにはならない(ヘンリーが現実に近くにいたら恐ろしいけど)。むしろ、さみしくてやりきれない気持ちになった。いい映画だと僕は思いました。

© 1986 MALJACK PRODUCTIONS
筆者紹介
二村ヒトシ(にむらひとし)。1964年生。痴女・レズビアン・ふたなり・女装美少年といったジェンダーを越境するジャンルで様々な演出の技法を創出、確立したアダルトビデオ監督。
著書『あなたの恋が出てくる映画』 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』 共著 『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』 『欲望会議 性とポリコレの哲学』ほか多数。
Twitter:@nimurahitoshi









